先日のクラス前のひととき。
生徒さんとの会話。
私「お変わりないですか? 最近どうですかー?」
生「体が楽になりました。いらない力が抜けるようになったんです。」
「今まで力を入れることしか知らなかったから・・・。」
私「そうですね。きっと私たちのほとんどは、みんなそうです。
私もそうです。」
生「え? 先生もですか? きっとアメリカ生活も厳しかったりしたから・・。」
こんな会話がきっかけとなって、話は進み・・。
短い数分のおしゃべりのはずが。
聞かれた質問にお答えしているうちに、
気づけば自分の振り返りをしていた。
ニューヨークでのダンサー生活。
プロの卵たちと切磋琢磨した競争ばかりのスクール生活も。
実際の表舞台も。
確かに厳しかった。
(恵まれていた。幸せな経験だった。・・・の大前提はありきで。)
でも、思い返せば幼少期から。
【力を入れること】
私はそれしか、頑張る方法を知らなかった。
力を入れることこそが、
頑張っていること、
えらいこと、
すごいこと、
立派なこと
「ちゃんとしてる」っていうこと。
そう思っていた。
頭よりも先に、
体がそう理解していた。
そしていつしか、
その状態が一番「楽」になっていたのかもしれない。
力を抜くことで、
自分のコントロールを失うような気がして
不安だったのかもしれない。
体はもちろん、
心の軸も失う気がして。
今の私にしてみれば、
力を入れること =
頑張ること =
我慢すること =
「もっと、もっと」を求めること =
(やる気で)興奮すること =
期待すること =
ナーバスになること =
怒ること =
落ち込むこと etc.
・・・・
すべては同義語。
良い・悪いではなく
それはただの「状態」を表している。
緊張・ 収縮・ 歪み
という状態。
この言葉の前に、
体の、とつけたとしても。
心の、とつけたとしても。
筋肉もしかり、神経もしかり。
ぐっと握りしめた拳、
この手をあまりにも固く、
ずーっと結んでいるから。
この手を解くなんて、
なんか不安で、
中にある大事なものが
逃げていきそうで。
失いそうで。
でも、
最初からずーっと握っているものだから、
そもそも何を握っていたのか、
何をそんなに大事に手の中にしまっているか、
自分でも分かっていない。
実は自分が一番、分かっていない。
その固く結んだ手を、ほどいてみよう。
ゆっくりでいいから、
勇気をもって、
ほどいていこう。
そう決めた時から。
初めて、
すこしずつ、
目にすることができた。
実感することができた。
あー私がこんなにまで頑なに大事にしたかったものって、
これなんだ、と。
そして気がづいた。
手を柔らかく開いてみたって、
それ(大事なもの)は、
手指の間からすり抜けて行きも、
落っこちも、しないのだ、と。
だって「それ」は、「私」自身だから。
「それ」は、私の「所有物」ではなく、
「私」そのもので在るのだから。
ゆるめること =
オープンであること =
自分らしくあること =
心地よくあること =
軸はブレずに遊び心を持つこと =
しなやか(強さ+やわらかさ)であること etc.
これらもまた、今の私にとってすべて同義語。
環境が自分の状態を決めるわけではない。
だってもしそうだとしたら、そんなのお先真っ暗すぎる。
「完璧な環境」なんて、きっと一生やってはこないから。
だからこう思えた方が救われる。
いつだって自分が、選んでいる。
いつからだって自分で、選べる。
どう在りたいのか、を。
毎日を生きる、それだけで、
収縮する私たち。
それもまた、
生きるための営み、の一部なのだろう。
誰が悪いわけでもなく、
大海(社会)の中で生きる動物・生物としての、
ある種の【防衛本能】のようなものなのかもしれない。
でもそれと、
収縮状態をデフォルトにする、のとはやっぱり違うはず。
拳を握った状態で物に触れるのと、
手を柔らかく開いてそうするのでは、
どちらが「ありのまま」の状態、
真実を感じられるだろう?
そんなの明らかだ。
ものの質感・温度・形を感じられない、
のはまだしも・・・
「私」についても、
真実を見失ってしまう。
この緊張(コリ)・収縮した、
体が、
思考が、
感情が、
あたかも「私」を定義するものかのように。
がんばり!も含めた
収縮状態は「悪」ではない。
でも、
それと自分の同一視は違う、ということ。
自分の本質(源)は何?
を知っていると、
収縮状態のときであっても、
自分への深い信頼感・安心感を後ろ盾に、
「楽」しめるのだろう。
指を優しく広げ、動かし。
自由に手のひらを返し。
空間(他者)と交わる。
その心地よさを知っているから、
再び握りしめるそのこぶしを
大切にできる。
味わうことができる。
そして、いつでも好きな時に。
その手を開けること、
開いていいことも、わかっている。
それが、ヨガが説く「苦行」と
私たちの好きな「頑張る」の違いかな。
それは、葛藤・抵抗を強めることでは決してなく。
自分を活かす(生かす)術を知ること。
流れに逆らうことではなく、
流れの力を借りること。
流れるプールも、流れに逆らったら・・あぁ、大変!
流れに乗りながらも、
ゆっくり浮かんでみたり、
景色を楽しみながら歩いてみたり、
一緒に泳いで加速させてみたり、
自由に選べる。
だから大前提は。
手放すことを知ること。
どこかで、
自分のちっぽけな拳の抵抗なんかとは
比べ物にならないほど大きな
宇宙の・自然の・神の・愛の・・・
表現はなんでもいいけど
そんな偉大なる力が、流れがあることを知り。
それに身を任せる柔らかさを併せ持つこと。
だって私はその偉大なるものの一部なのだから。
きっと悪いようにはしないって。
あとは、お任せしよう!
という「信頼感」。
あなたの吐く息は、
あなたの笑顔は、
その柔らかさのサイン。
だから今日も。
ゆるめよう。
マットの上で、ゆるめよう。
収縮してこわばった筋肉がゆるむころ。
ふーっと吐く息が抜けていくころ。
きっと触れられる。
私の中心にある、柔らかさ。暖かさ。
これが、私。
これが、あなた。なのだから。
私たち夫婦の毎朝の習慣。儀式。
出勤前に10分。2人ソファに並んで瞑想。
その終わりには、私たちが我が家の「神棚」と呼ぶ、家族写真や思い出の詰まった品を並べた棚の一角の前に立ち、手を合わせる。
その時々で様々な願いや、お礼を想いながら。
大人2人の時は、お互いの仕事の成功や目標の達成。
子供を授かった時は、小さな命への喜びと感謝。
そして今は、家族の絆と子供の健やかな成長
。。と言いたいところだけれど。
子供が生まれてからというもの、夫婦2人揃って瞑想なんて、しかも朝に?「え?冗談でしょ?」という世界へ行ってしまった。かるーくひとっ飛び(笑)
子供が目を覚ましたらもう、分刻みでスケジュールが始まる。ママとパパで役割分担・別行動。次から次へとto do list のノルマが頭の中をよぎる。
お昼寝が長くなる月齢になって、ようやく日中一息つけるようになってからは、そんな隙間時間にひとり瞑想を再開。
でも夫婦揃って、朝日に向かって、なんて。No Way!
かつてそんな事をしていたという事実さえ、つい最近何気ない会話の中で思い出すまで、忘れていたほど・・。
子供がいたら、子供中心に日常が動いていく。
当たり前のこと。
そうでなかった時と比べたり、同じことを同じようにしようとするのは、非現実的。
Changing a perspective
夫の朝のルーティーンのひとつが
「コーヒーを入れる」こと。
もちろん私がそのコーヒーを飲むのは、すでに夫が出勤し、
家事や育児のノルマをひと通りこなし、さぁ!これから子供を外に連れ出すぞ!と気合いを入れ直す頃。当然とっくに冷めたコーヒーを、まるでエナジードリンクを飲み干すかのように一気に流し込む...。
毎日、そのマグにはカバーが掛けられている。
そんな私の様子を見越した、夫の優しさ。
でも私は気づいていなかった。
そこに在る相手の想いに「心」を留めることはなかった。
担当だから。
わたしは私で、あれとあれとこれとそれをやっているし。
「いつもそこにあるコーヒー」を、
「今日もそこにあって当たり前のコーヒー」を、
ただ、飲み干す。まるでそれもまたリストの項目をひとつ消す作業かのように。
3分でいい、いや、1分でいいよ私。
作りかけのお弁当も、干したくて仕方のない洗濯物の山も、そろそろ気になるオムツの様子も横に置いて、一度手を止めよう。
まだコーヒーの湯気が出ているうちに、一回座って、
向かい合って、一口飲もう。
そして何より、当たり前のこと、
「ありがとう」を、声に出して伝えよう。
その一瞬だって、自分次第で、立派な「儀式」になるはず、できる、はず。
Intention
Mindfulness
日常でも、ヨガの練習でも、きっとそれが何であろうと、
大切なことは共通しているはず。
Intention - 意図
「私はなぜそれをするのか?」
例えば、
私はなぜ忙しない夕方、息子の夕飯を何とか「手作り」で間に合わせようと必死になるのか?
「子供のため」「栄養バランスを考えて」「良かれと思って」は、
「自分の達成感のため」「いつもそうしているから」「その方がいいと言われたから何となく(そうしないといけない気がする)」に、
すり替わってはいないだろうか?
では今キッチンに立つ私の足元で、抱っこしてとしがみつきなくこの子は?
一番何をして欲しいのだろうか?
火を止めよう。手を止めよう。抱きしめよう。
もう満足した、降りたいよーと言われるまで、ぎゅっとしよう。
お腹は、手作りでなくても満たされる。
その前に、目の前にある想いを満たしたい。
Mindfulness - 注意深さ
「抱っこして」とせがむ子供に、
100%抱っこすることだけで受け止めている時間が、
1日の中で一体どれくらいあるのだろう?
5分?。。それって実は長い。いや1分?
抱っこ!抱っこ!ばかり。。と思うこともあるけれど、
大抵は「〜しながら」の抱っこ。
私はこの子の目を見ているだろうか?
その肌のぬくもり、柔らかさを、しっかり手の中で感じているだろうか?
表面をなぞるのではなく、”こなす”のではなく。
もう二度と訪れない、戻ってはこないこの瞬間を、注意深く握り締められるようでありたい。
Your yoga practice has to be clever than your habit.
- paraphrasing TKV Desikachar
いつも通りの練習メニューを
いつもと同じやり方で、
いつもそうしているからという理由で、
いや理由なんて考えることもなく、
”ただ”練習するのは、練習とは言わない。
それはもう、脳にとっても筋肉にとっても新たな「刺激」ではなく、そこに「学び」は生まれない。
慣れてきたときにこそ、
立ち止まり、自問自答。
敢えて「変化」を招き入れ、
オープンマインドに。
「変化」に対する心身の一斉の抵抗に受けて立つ。
その中にある「気づき」こそが、「習慣」よりも「癖」よりも、賢いもの。だという。
毎回テーマ・内容は違っても、私のクラスやワークショップで共通して根底に置いている2つのキー。
Intention
Mindfulness
「そもそも何のため?」
目的を明らかに、ビジョンをクリアに。
ひとつひとつの自分の行為に「心」を置く。
手を合わせるかのように、丁寧に。
それはまるで儀式。
”なんであの時あんなこと言ってしまったんだろう...。”
”なんであの時OOしなかっのだろう...。”
ひとには誰でもそんな後悔が、大なり小なりひとつはあるだろう。
思考ー
それは私たち人間を人間として機能させる大切な働き。
寝ている時以外休みなし、ひっきりなしに私たちを刺激し続けるもの。
悪者ではない。扱いがちょっと厄介なだけ。
そしてその刺激に対して私たちそれぞれが持つ反射的、衝動的、感情的、習慣的反応。
ココロ癖、言動・行動癖、とも言えるだろうか。それには、生きる上で身につけてきたある種の防衛本能も含まれる。
この刺激と反応のあいだに一瞬の間(ま)、Gap(溝)を作れたなら。
その先に広がるのは全く別の道。
その「間」にこそ、平穏へのカギがありそうだ。
反射的、衝動的、感情的、習慣的反応は、意識的な選択へと変わる。
あるいは、全く反応しないという選択にも。
瞑想のとき。
止まることなくちょっかいを出してくる思考の連続。
思考を完全に止めることなんて出来やしない。
まして、
前向きな、暖かい、思いやりに溢れた、、
そんな思考だけならまだしも。
私たちは人間だからそうもいかない。
後ろ向きで、否定的で、いじわるな思考だって顔を出す。
「そんなことを思う自分なんて、、」と否定するのも違う。
なかったことにしてフタをするのも、端に追いやるのも違う。
きっと持ってはいけない思考・感情なんてなくって。
否定する必要はない。
気づくということに意味があるはず。
気づけて初めて手放すこともできるのだから、喜ばなくっちゃ。
あらゆる思考を見守る優しさ、手放す勇気、
そんな「強さ」を瞑想を通じて養っている気がする。
ひたすらに、ひたむきに、意識を呼吸へ、呼吸へー
「今」この瞬間へと戻すプラクティス。
思考が連れて行こうとする過去にも未来にも振り回されず、
「今」に100%在ることを選択し続ける練習。
すると少しずつ、刺激と反応の間に存在する、し得る、一瞬の「間」が見えてくる。
「あー足がしびれたもう無理!」とため息をついて足を崩し、オーディオガイドに駄目出しをする... 自分のいつもの姿が見えて、にやっとできる一瞬の「間」。
「さぁどうする?いつものパターン行く?」
「いや、今日はもう少しこのしびれの様子を見守ってみよう。」と深呼吸することを選択。
このダイアログが交わされるのはほんの一瞬だけれど、
これがマットの外のシーンなら、その一瞬の「間」が、人生をも左右することもあるだろう。
だって人生は、小さな選択の繰り返し、積み重ね。
そこに選択肢があるかどうかも分からないままでも、勝手に進んでいってしまう。
だから、過去のパターンに引っ張られるんじゃなく、未来の不安で先回りするんじゃなく、「選択した」という意識をもって常に「今」を選び続けたい。
何を選択したのかよりも、「自分で選んだ」という事実そのものの方が、のちのち自分を支えてくれると思うから。だから選択肢に正解もない。
フィジカルボディーは筋トレをして健やかさを保つように、
マインドもトレーニングして飼い慣らす必要がある。ー瞑想。
ココロも強くしなやかに。
その強さで、その間、そのひと呼吸を生み出せるように。
マインドは、私たちが”世界”を見るためのレンズなのだから。
そのひと呼吸で、私の世界が変わる。人生が変わる。
さぁ、こんなときこそ、深呼吸。
"We all are artists of our own lives"
「私たちはみなそれぞれに、自らの人生のアーティストである。」
ー最近心に留まった言葉。
この身体、という小宇宙空間をどう保つのか、
そのスペースの中でどれだけ深く呼吸するのか、
それは私次第。
この空間の中にどのような思考を住まわせること許すのか、
どんな思考を選び、どうコントロールするのか、
それは私次第。
それが私というアーティストの作り出す「作品」となる。
その自らが作り出した内側の世界をレンズにして、私たちは外の世界を見る。
そして言う。「これが現実の世界だ」と。
外の世界はどうしようもない。
目をそらしたくなるようなあんな出来事にも、
苦手なあの人の言動にも、
コントロールは及びはしない。
でも、内側の世界は自分の意識ひとつで
自由自在。
自由であり、責任。
内側が変われば、
外側に見えてくるものが変わるだろう。
私のアンテナにひっかかるもの、
私のアンテナが拾えるもの、
が変わるだろう。
そもそも幻想の「現実」は私、次第。
ヒーリングというと、
何かドラマチックな出来事があった特定の人だけに必要な癒しの作業
のような印象を持つ人もいる。
でもそれはもっと身近なもので、
ストレスから逃れられない現代人みなに日々必要な「プロセス」だと思う。
頭の中から消えないそのマインドのチャットも、
ひっきりなしによぎるそのイメージ・印象も、
不定愁訴とよばれ続くその身体の不快感も、
みな理由があってそこにある。
だから否定しない、一旦見守る。
批判、評価、コメントしてしまうそのジャッジの目を見守る思いやりに。
他へ、己へ抱く苦味、渋みを智慧へ。
変換していくプロセス ーヒーリング。
尊敬するスピリチュアルリーダや、ヨガマスターたちの言葉に共通するのは、
「恐れから愛へ」
というプロセス。
壮大にも思えるこの工程。。
最近見た素敵なショートフィルム
”Be a Man" by Bob Gottfried のエンディング曲 ~'Cause Love is Easy~
にあったこんなフレーズ。
"Just don't despair, don't give up, no need to dwell in pain..."
"Love is easy if you don't allow your mind to lie..."
"...If you trust and try."
そう、大切なことは実はシンプル。
そしてだから、難しくもあるけど。
どんな混沌の中でも、その指標を忘れずに進んでいけますように。
来る新年も、人類がまた一歩「愛」へのプロセスを辿っていけますように。
2015年
みなさん良いお年をお迎えください。
待ってました!ポッカポカの陽気。
思わず顔がほころんだり。
空を見上るとまぶしい太陽に胸いっぱい。目を閉じてみたり。
お天道さま。ありがたい。
何だかもうそれだけで、今日も大丈夫な気がする。
身体の中ではまるで何かが目覚めるように、うずうずワクワクを感じたり。
私たちも、やっぱり動物なんだなーと感じる瞬間。
本日発表、桜の開花宣言。
私たちの中にはそれが今日になろうと、例え4月にずれこんでいようと、
「いずれ春がくれば必ず桜は咲く。」という確信があったはず。
そして、1月2月の極寒まっただ中にあって、
「何で桜はまだ咲かないの?」と思った人はいないはず。
私たちが絶対的な信頼を寄せる、大いなる自然のリズム。
私たちの中にだって息づいている、大いなる自然のリズム。
なのにことが自分に及ぶと、桜のようにはいかない... やけに厳しくなる..
「信じること」「見守り待つこと」 ...難しかったり。
自分の中に在る
たった今種をまかれたばかりのもの
かたーく閉じたつぼみ
ふっくらともう一息のつぼみ
すでに花開いたもの
すべての瞬間を祝福出来るようでありたい。
どんな自分も信じて見守ってあげたい。
すべての段階、過程は用意された必然。自然のサイクル。
五感すべてで自然を楽しめる春の季節。
私もその自然界の一員であること、思い出そう。