先日のクラス前のひととき。
生徒さんとの会話。
私「お変わりないですか? 最近どうですかー?」
生「体が楽になりました。いらない力が抜けるようになったんです。」
「今まで力を入れることしか知らなかったから・・・。」
私「そうですね。きっと私たちのほとんどは、みんなそうです。
私もそうです。」
生「え? 先生もですか? きっとアメリカ生活も厳しかったりしたから・・。」
こんな会話がきっかけとなって、話は進み・・。
短い数分のおしゃべりのはずが。
聞かれた質問にお答えしているうちに、
気づけば自分の振り返りをしていた。
ニューヨークでのダンサー生活。
プロの卵たちと切磋琢磨した競争ばかりのスクール生活も。
実際の表舞台も。
確かに厳しかった。
(恵まれていた。幸せな経験だった。・・・の大前提はありきで。)
でも、思い返せば幼少期から。
【力を入れること】
私はそれしか、頑張る方法を知らなかった。
力を入れることこそが、
頑張っていること、
えらいこと、
すごいこと、
立派なこと
「ちゃんとしてる」っていうこと。
そう思っていた。
頭よりも先に、
体がそう理解していた。
そしていつしか、
その状態が一番「楽」になっていたのかもしれない。
力を抜くことで、
自分のコントロールを失うような気がして
不安だったのかもしれない。
体はもちろん、
心の軸も失う気がして。
今の私にしてみれば、
力を入れること =
頑張ること =
我慢すること =
「もっと、もっと」を求めること =
(やる気で)興奮すること =
期待すること =
ナーバスになること =
怒ること =
落ち込むこと etc.
・・・・
すべては同義語。
良い・悪いではなく
それはただの「状態」を表している。
緊張・ 収縮・ 歪み
という状態。
この言葉の前に、
体の、とつけたとしても。
心の、とつけたとしても。
筋肉もしかり、神経もしかり。
ぐっと握りしめた拳、
この手をあまりにも固く、
ずーっと結んでいるから。
この手を解くなんて、
なんか不安で、
中にある大事なものが
逃げていきそうで。
失いそうで。
でも、
最初からずーっと握っているものだから、
そもそも何を握っていたのか、
何をそんなに大事に手の中にしまっているか、
自分でも分かっていない。
実は自分が一番、分かっていない。
その固く結んだ手を、ほどいてみよう。
ゆっくりでいいから、
勇気をもって、
ほどいていこう。
そう決めた時から。
初めて、
すこしずつ、
目にすることができた。
実感することができた。
あー私がこんなにまで頑なに大事にしたかったものって、
これなんだ、と。
そして気がづいた。
手を柔らかく開いてみたって、
それ(大事なもの)は、
手指の間からすり抜けて行きも、
落っこちも、しないのだ、と。
だって「それ」は、「私」自身だから。
「それ」は、私の「所有物」ではなく、
「私」そのもので在るのだから。
ゆるめること =
オープンであること =
自分らしくあること =
心地よくあること =
軸はブレずに遊び心を持つこと =
しなやか(強さ+やわらかさ)であること etc.
これらもまた、今の私にとってすべて同義語。
環境が自分の状態を決めるわけではない。
だってもしそうだとしたら、そんなのお先真っ暗すぎる。
「完璧な環境」なんて、きっと一生やってはこないから。
だからこう思えた方が救われる。
いつだって自分が、選んでいる。
いつからだって自分で、選べる。
どう在りたいのか、を。
毎日を生きる、それだけで、
収縮する私たち。
それもまた、
生きるための営み、の一部なのだろう。
誰が悪いわけでもなく、
大海(社会)の中で生きる動物・生物としての、
ある種の【防衛本能】のようなものなのかもしれない。
でもそれと、
収縮状態をデフォルトにする、のとはやっぱり違うはず。
拳を握った状態で物に触れるのと、
手を柔らかく開いてそうするのでは、
どちらが「ありのまま」の状態、
真実を感じられるだろう?
そんなの明らかだ。
ものの質感・温度・形を感じられない、
のはまだしも・・・
「私」についても、
真実を見失ってしまう。
この緊張(コリ)・収縮した、
体が、
思考が、
感情が、
あたかも「私」を定義するものかのように。
がんばり!も含めた
収縮状態は「悪」ではない。
でも、
それと自分の同一視は違う、ということ。
自分の本質(源)は何?
を知っていると、
収縮状態のときであっても、
自分への深い信頼感・安心感を後ろ盾に、
「楽」しめるのだろう。
指を優しく広げ、動かし。
自由に手のひらを返し。
空間(他者)と交わる。
その心地よさを知っているから、
再び握りしめるそのこぶしを
大切にできる。
味わうことができる。
そして、いつでも好きな時に。
その手を開けること、
開いていいことも、わかっている。
それが、ヨガが説く「苦行」と
私たちの好きな「頑張る」の違いかな。
それは、葛藤・抵抗を強めることでは決してなく。
自分を活かす(生かす)術を知ること。
流れに逆らうことではなく、
流れの力を借りること。
流れるプールも、流れに逆らったら・・あぁ、大変!
流れに乗りながらも、
ゆっくり浮かんでみたり、
景色を楽しみながら歩いてみたり、
一緒に泳いで加速させてみたり、
自由に選べる。
だから大前提は。
手放すことを知ること。
どこかで、
自分のちっぽけな拳の抵抗なんかとは
比べ物にならないほど大きな
宇宙の・自然の・神の・愛の・・・
表現はなんでもいいけど
そんな偉大なる力が、流れがあることを知り。
それに身を任せる柔らかさを併せ持つこと。
だって私はその偉大なるものの一部なのだから。
きっと悪いようにはしないって。
あとは、お任せしよう!
という「信頼感」。
あなたの吐く息は、
あなたの笑顔は、
その柔らかさのサイン。
だから今日も。
ゆるめよう。
マットの上で、ゆるめよう。
収縮してこわばった筋肉がゆるむころ。
ふーっと吐く息が抜けていくころ。
きっと触れられる。
私の中心にある、柔らかさ。暖かさ。
これが、私。
これが、あなた。なのだから。
私たち夫婦の毎朝の習慣。儀式。
出勤前に10分。2人ソファに並んで瞑想。
その終わりには、私たちが我が家の「神棚」と呼ぶ、家族写真や思い出の詰まった品を並べた棚の一角の前に立ち、手を合わせる。
その時々で様々な願いや、お礼を想いながら。
大人2人の時は、お互いの仕事の成功や目標の達成。
子供を授かった時は、小さな命への喜びと感謝。
そして今は、家族の絆と子供の健やかな成長
。。と言いたいところだけれど。
子供が生まれてからというもの、夫婦2人揃って瞑想なんて、しかも朝に?「え?冗談でしょ?」という世界へ行ってしまった。かるーくひとっ飛び(笑)
子供が目を覚ましたらもう、分刻みでスケジュールが始まる。ママとパパで役割分担・別行動。次から次へとto do list のノルマが頭の中をよぎる。
お昼寝が長くなる月齢になって、ようやく日中一息つけるようになってからは、そんな隙間時間にひとり瞑想を再開。
でも夫婦揃って、朝日に向かって、なんて。No Way!
かつてそんな事をしていたという事実さえ、つい最近何気ない会話の中で思い出すまで、忘れていたほど・・。
子供がいたら、子供中心に日常が動いていく。
当たり前のこと。
そうでなかった時と比べたり、同じことを同じようにしようとするのは、非現実的。
Changing a perspective
夫の朝のルーティーンのひとつが
「コーヒーを入れる」こと。
もちろん私がそのコーヒーを飲むのは、すでに夫が出勤し、
家事や育児のノルマをひと通りこなし、さぁ!これから子供を外に連れ出すぞ!と気合いを入れ直す頃。当然とっくに冷めたコーヒーを、まるでエナジードリンクを飲み干すかのように一気に流し込む...。
毎日、そのマグにはカバーが掛けられている。
そんな私の様子を見越した、夫の優しさ。
でも私は気づいていなかった。
そこに在る相手の想いに「心」を留めることはなかった。
担当だから。
わたしは私で、あれとあれとこれとそれをやっているし。
「いつもそこにあるコーヒー」を、
「今日もそこにあって当たり前のコーヒー」を、
ただ、飲み干す。まるでそれもまたリストの項目をひとつ消す作業かのように。
3分でいい、いや、1分でいいよ私。
作りかけのお弁当も、干したくて仕方のない洗濯物の山も、そろそろ気になるオムツの様子も横に置いて、一度手を止めよう。
まだコーヒーの湯気が出ているうちに、一回座って、
向かい合って、一口飲もう。
そして何より、当たり前のこと、
「ありがとう」を、声に出して伝えよう。
その一瞬だって、自分次第で、立派な「儀式」になるはず、できる、はず。
Intention
Mindfulness
日常でも、ヨガの練習でも、きっとそれが何であろうと、
大切なことは共通しているはず。
Intention - 意図
「私はなぜそれをするのか?」
例えば、
私はなぜ忙しない夕方、息子の夕飯を何とか「手作り」で間に合わせようと必死になるのか?
「子供のため」「栄養バランスを考えて」「良かれと思って」は、
「自分の達成感のため」「いつもそうしているから」「その方がいいと言われたから何となく(そうしないといけない気がする)」に、
すり替わってはいないだろうか?
では今キッチンに立つ私の足元で、抱っこしてとしがみつきなくこの子は?
一番何をして欲しいのだろうか?
火を止めよう。手を止めよう。抱きしめよう。
もう満足した、降りたいよーと言われるまで、ぎゅっとしよう。
お腹は、手作りでなくても満たされる。
その前に、目の前にある想いを満たしたい。
Mindfulness - 注意深さ
「抱っこして」とせがむ子供に、
100%抱っこすることだけで受け止めている時間が、
1日の中で一体どれくらいあるのだろう?
5分?。。それって実は長い。いや1分?
抱っこ!抱っこ!ばかり。。と思うこともあるけれど、
大抵は「〜しながら」の抱っこ。
私はこの子の目を見ているだろうか?
その肌のぬくもり、柔らかさを、しっかり手の中で感じているだろうか?
表面をなぞるのではなく、”こなす”のではなく。
もう二度と訪れない、戻ってはこないこの瞬間を、注意深く握り締められるようでありたい。
Your yoga practice has to be clever than your habit.
- paraphrasing TKV Desikachar
いつも通りの練習メニューを
いつもと同じやり方で、
いつもそうしているからという理由で、
いや理由なんて考えることもなく、
”ただ”練習するのは、練習とは言わない。
それはもう、脳にとっても筋肉にとっても新たな「刺激」ではなく、そこに「学び」は生まれない。
慣れてきたときにこそ、
立ち止まり、自問自答。
敢えて「変化」を招き入れ、
オープンマインドに。
「変化」に対する心身の一斉の抵抗に受けて立つ。
その中にある「気づき」こそが、「習慣」よりも「癖」よりも、賢いもの。だという。
毎回テーマ・内容は違っても、私のクラスやワークショップで共通して根底に置いている2つのキー。
Intention
Mindfulness
「そもそも何のため?」
目的を明らかに、ビジョンをクリアに。
ひとつひとつの自分の行為に「心」を置く。
手を合わせるかのように、丁寧に。
それはまるで儀式。
”なんであの時あんなこと言ってしまったんだろう...。”
”なんであの時OOしなかっのだろう...。”
ひとには誰でもそんな後悔が、大なり小なりひとつはあるだろう。
思考ー
それは私たち人間を人間として機能させる大切な働き。
寝ている時以外休みなし、ひっきりなしに私たちを刺激し続けるもの。
悪者ではない。扱いがちょっと厄介なだけ。
そしてその刺激に対して私たちそれぞれが持つ反射的、衝動的、感情的、習慣的反応。
ココロ癖、言動・行動癖、とも言えるだろうか。それには、生きる上で身につけてきたある種の防衛本能も含まれる。
この刺激と反応のあいだに一瞬の間(ま)、Gap(溝)を作れたなら。
その先に広がるのは全く別の道。
その「間」にこそ、平穏へのカギがありそうだ。
反射的、衝動的、感情的、習慣的反応は、意識的な選択へと変わる。
あるいは、全く反応しないという選択にも。
瞑想のとき。
止まることなくちょっかいを出してくる思考の連続。
思考を完全に止めることなんて出来やしない。
まして、
前向きな、暖かい、思いやりに溢れた、、
そんな思考だけならまだしも。
私たちは人間だからそうもいかない。
後ろ向きで、否定的で、いじわるな思考だって顔を出す。
「そんなことを思う自分なんて、、」と否定するのも違う。
なかったことにしてフタをするのも、端に追いやるのも違う。
きっと持ってはいけない思考・感情なんてなくって。
否定する必要はない。
気づくということに意味があるはず。
気づけて初めて手放すこともできるのだから、喜ばなくっちゃ。
あらゆる思考を見守る優しさ、手放す勇気、
そんな「強さ」を瞑想を通じて養っている気がする。
ひたすらに、ひたむきに、意識を呼吸へ、呼吸へー
「今」この瞬間へと戻すプラクティス。
思考が連れて行こうとする過去にも未来にも振り回されず、
「今」に100%在ることを選択し続ける練習。
すると少しずつ、刺激と反応の間に存在する、し得る、一瞬の「間」が見えてくる。
「あー足がしびれたもう無理!」とため息をついて足を崩し、オーディオガイドに駄目出しをする... 自分のいつもの姿が見えて、にやっとできる一瞬の「間」。
「さぁどうする?いつものパターン行く?」
「いや、今日はもう少しこのしびれの様子を見守ってみよう。」と深呼吸することを選択。
このダイアログが交わされるのはほんの一瞬だけれど、
これがマットの外のシーンなら、その一瞬の「間」が、人生をも左右することもあるだろう。
だって人生は、小さな選択の繰り返し、積み重ね。
そこに選択肢があるかどうかも分からないままでも、勝手に進んでいってしまう。
だから、過去のパターンに引っ張られるんじゃなく、未来の不安で先回りするんじゃなく、「選択した」という意識をもって常に「今」を選び続けたい。
何を選択したのかよりも、「自分で選んだ」という事実そのものの方が、のちのち自分を支えてくれると思うから。だから選択肢に正解もない。
フィジカルボディーは筋トレをして健やかさを保つように、
マインドもトレーニングして飼い慣らす必要がある。ー瞑想。
ココロも強くしなやかに。
その強さで、その間、そのひと呼吸を生み出せるように。
マインドは、私たちが”世界”を見るためのレンズなのだから。
そのひと呼吸で、私の世界が変わる。人生が変わる。
さぁ、こんなときこそ、深呼吸。
"We all are artists of our own lives"
「私たちはみなそれぞれに、自らの人生のアーティストである。」
ー最近心に留まった言葉。
この身体、という小宇宙空間をどう保つのか、
そのスペースの中でどれだけ深く呼吸するのか、
それは私次第。
この空間の中にどのような思考を住まわせること許すのか、
どんな思考を選び、どうコントロールするのか、
それは私次第。
それが私というアーティストの作り出す「作品」となる。
その自らが作り出した内側の世界をレンズにして、私たちは外の世界を見る。
そして言う。「これが現実の世界だ」と。
外の世界はどうしようもない。
目をそらしたくなるようなあんな出来事にも、
苦手なあの人の言動にも、
コントロールは及びはしない。
でも、内側の世界は自分の意識ひとつで
自由自在。
自由であり、責任。
内側が変われば、
外側に見えてくるものが変わるだろう。
私のアンテナにひっかかるもの、
私のアンテナが拾えるもの、
が変わるだろう。
そもそも幻想の「現実」は私、次第。
ヒーリングというと、
何かドラマチックな出来事があった特定の人だけに必要な癒しの作業
のような印象を持つ人もいる。
でもそれはもっと身近なもので、
ストレスから逃れられない現代人みなに日々必要な「プロセス」だと思う。
頭の中から消えないそのマインドのチャットも、
ひっきりなしによぎるそのイメージ・印象も、
不定愁訴とよばれ続くその身体の不快感も、
みな理由があってそこにある。
だから否定しない、一旦見守る。
批判、評価、コメントしてしまうそのジャッジの目を見守る思いやりに。
他へ、己へ抱く苦味、渋みを智慧へ。
変換していくプロセス ーヒーリング。
尊敬するスピリチュアルリーダや、ヨガマスターたちの言葉に共通するのは、
「恐れから愛へ」
というプロセス。
壮大にも思えるこの工程。。
最近見た素敵なショートフィルム
”Be a Man" by Bob Gottfried のエンディング曲 ~'Cause Love is Easy~
にあったこんなフレーズ。
"Just don't despair, don't give up, no need to dwell in pain..."
"Love is easy if you don't allow your mind to lie..."
"...If you trust and try."
そう、大切なことは実はシンプル。
そしてだから、難しくもあるけど。
どんな混沌の中でも、その指標を忘れずに進んでいけますように。
来る新年も、人類がまた一歩「愛」へのプロセスを辿っていけますように。
2015年
みなさん良いお年をお迎えください。
待ってました!ポッカポカの陽気。
思わず顔がほころんだり。
空を見上るとまぶしい太陽に胸いっぱい。目を閉じてみたり。
お天道さま。ありがたい。
何だかもうそれだけで、今日も大丈夫な気がする。
身体の中ではまるで何かが目覚めるように、うずうずワクワクを感じたり。
私たちも、やっぱり動物なんだなーと感じる瞬間。
本日発表、桜の開花宣言。
私たちの中にはそれが今日になろうと、例え4月にずれこんでいようと、
「いずれ春がくれば必ず桜は咲く。」という確信があったはず。
そして、1月2月の極寒まっただ中にあって、
「何で桜はまだ咲かないの?」と思った人はいないはず。
私たちが絶対的な信頼を寄せる、大いなる自然のリズム。
私たちの中にだって息づいている、大いなる自然のリズム。
なのにことが自分に及ぶと、桜のようにはいかない... やけに厳しくなる..
「信じること」「見守り待つこと」 ...難しかったり。
自分の中に在る
たった今種をまかれたばかりのもの
かたーく閉じたつぼみ
ふっくらともう一息のつぼみ
すでに花開いたもの
すべての瞬間を祝福出来るようでありたい。
どんな自分も信じて見守ってあげたい。
すべての段階、過程は用意された必然。自然のサイクル。
五感すべてで自然を楽しめる春の季節。
私もその自然界の一員であること、思い出そう。
年末年始。一年を振り返るとき。
沸き上がる想いに、人と交わす挨拶・礼状に感謝が溢れる、嬉しい季節。
2013年。仕事を通じて、プライベートを通して、お目にかかった方々(才能)。
有形な世界の奥深さに唸らされ、無形な世界のそれには感嘆させられ、
魅せられた1年。幸せ。感謝。
どちらの世界も共に美しく、神秘そのもの。等しく大切で愛おしい。
私=からだ ではないから。内側の「きらきら」を近くに感じられるように。
その「きらきら」の源(ソース)である大きな力との繋がりを失わないように、いつも思い出していたい。
でもその「きらきら」はこの地球上では肉体(からだ)の中でしか存在できないのだから。同じく大切な神殿(からだ)。
怪我なく、痛みなく、機能的に、健やかでありたい。
何事も、否定してナシにしてしまうのは簡単。楽チン。
マインドは満足げに「よしよし」というだろうけど、
でも
「そんな事もあるかもしれない」「それもありだよね。」
というのびしろを残しておきたい。
見える世界のことも、見えない世界のことも。
自分に対しても、ひとに対しても。
Noと線を引いてしまったらそこで終わってしまうから、
可能性を残しておきたい。Openでありたいなと思う。
語尾にひろがりを持たせたい。だってその方がワクワクするしね。
何のことであれ、誰のことであれ、私たちが何かを否定するとき、
そこには恐れがある。
だったら、勇気を持って微笑んでいる人でありたい。
アーサナの時間。
いわゆる挑戦ポーズと言われる逆転のポーズやアームバランスでは、
たいていクラスルームにピーンと緊張が張りつめる瞬間がある。
そんな時こそユーモアと笑い。
「こうでなければいけない(ポーズの完成形への執着)」
「あーこれ無理、苦手(否定)」
これらのマインドのおしゃべりが私たちの恐れを掻き立てる時、
呼吸は止まり、身体はこわばり、悪循環...。
そこで救世主の「クスっ」と笑い。
どてっとこけた自分に、すんごい必死になってる自分に、
もう一人の自分が笑ってあげられる余裕があると..しめたもの!
また、そうあれる領域の中で頑張ればいい。
これはマットの上でなくても同じかなぁと思う。
笑顔は自分へ贈る最大のセラピー。
四角□ でなく まぁるく◯ ありたい。
直線でなく、カーブを楽しめるようでありたい。
それは迷走なんじゃなくって、
進む方向を見据えながらも寄り道を大いに遊べる余裕を持つ感じ。
新年早々ちょっとしたアクシデントでバタついた。
そんな日の瞑想。
降りてきた言葉は
「不意打ちの時こそ、自分の智慧が試されるもの。」
...だよね〜。苦笑するしかない。
”You've caught me off guard, Universe!!" (不意打ち食らった!)
そう言って空を仰いで、クスって笑って乗り越えていける人でありたい。
ここから始まる2014年はまだ真っ白のキャンバス。
誰が何と言おうと、自分のマインドが何と言おうと、ひろがっている無限の可能性。
どうにでもなる。私、次第。
否定しない、決めつけない。
ユーモアと笑いで描いていこう。
「頑張ろっ!」「頑張る...。」
気づけばまた口癖になっていた。
駆け込むように飛び込んだセルフマッサージのクラス。
久々に「ちゃんと」自分を触ってあげたな。
身体は正直。
身体は想いをすくう。
こんなに突っ張って...
私のもも、みぞおち、脇回り。
首の付け根に、後頭部も。
キツーくなっている骨盤。
あらら、足首もこんなに硬くなっちゃって。
きっと気づかないだけで、
眉間にしわを寄せたり、手がグーになってたり、ピクっと鼻を膨らませちゃったり
...しているんだろうな。
見ている方も苦しいよな。
ほんの少し気持ちと時間を割くだけで取り戻せる、
自分を「愛おしい」と思う気持ち。
大切にされると、誰だって、何だって嬉しい。私の身体も。
身体が緩めば、その内側から自然と湧き出す柔らかい気持ち。
ほっこりと。
「ううん。頑張んなくっていいの。考え過ぎなのかもね。」
そうおおらかに笑うあの人。はっとなる。
「私が」どうにかしなきゃ!っとがんじがらめになるときは、
小さな自分の世界が大きな全ての世界になってしまっているとき。
「圧倒的な大いなる力」
それが「無限の宇宙」ならば、私の中には小宇宙がある。
それが「大自然」ならば、私はそれを構成する「一滴のエッセンス」
全てと、みんなと繋がっている。ひとつ。
でもすぐ忘れてしまう。離れてしまう。
自分一人で頑張っている=頑張れる 様な気になってしまう。
「ちゃんとお願いすればいいの。答えてくれるから。」
もっと信頼しなくっちゃ。その大きな存在を。自分はその一部なのだから。
悪いようにはしないって。
頑張らずに、もっと委ねることを、任せることを、知っていきたい。
そう言えば、
「人事を尽くして天命を待つ」っていう言葉が日本にもあるよな。
私たちの大好きな「頑張る」って言葉も、そんな意味で使っていきたい。
素敵なその人とのご縁から拡がったもうひとつの素敵なご縁が
レイオフ・ライダーさんとの出会い。
8月末、前回来日の際に初めて彼女のヒーリングセッションの通訳をさせて頂いた。
レイオフさんの3つの魔法の言葉
「Mahalo (感謝)」
「Ohana (家族)」
「Aloha (愛)」
包み込む様な温かい人。豊かな人。愛そのもの。
そんな方だった。
みんな家族。愛で繋がっている。
それも、あれも、ひと呼吸おいて感謝に変えてみる。
今回のセッションではどんな言葉が飛び出すのだろう。楽しみ。
自分の中にある「愛おしさ」を思い出すとき、寄って来る人にも、周りのものにも
愛を見る。他人の優しさにもっと気づける。
今目に映るもの、心に留まる外の様子は、今の自分の内の様子。
「ちょうどこの部屋の中で赤を見つけて、というと急に赤いものが目に飛び込んで来るようにね。」
何に意識を置きたいのか。自分に何を招き入れたいのかは、自分で選べる。
だからこそ、自分をいたわること、自分を慈しむことも、さぼっちゃいけない。
「とにかくしっかり昼寝する」
「ずっと我慢してたあの服買っちゃう!」
「森林浴」+「読書」.... 最高!
色々あるけど今回は、
またまた素敵なあの方の講演会に申し込んでみた!ずっとスケジュールが合わなかったのに、今回は合った!
「愛おしい」想いに溢れる時間を楽しんでこようと思う。
そう。みんなひとつ。
シンクロニシティー
それはたくさん過ぎる偶然が折り重なって創られた旅だった。
お見舞いに行った病室で、いとこと私を前に祖父が見せてくれた優しい微笑み。
その翌日、尊敬してやまない祖父は他界した。
誠実・正直・真面目という言葉が世界一似合う祖父は、
闘病中も弱音ひとつ言わず、その優しい目の奥に強い意思を持って一人堪えていた。
去り際も決意が見て取れるかのように何とも潔すぎて...。
残されたものたちは、これからゆっくりゆっくり時間をかけて追いついていかなくてはならない。
親戚・家族みんなでお別れの儀をした翌日、ニューヨークへ。
もしもの時は行かないつもりでいた今回の旅。変な言い方だけれど、行けることになってしまった。こんな段取り、祖父にしか出来ない。
もちろん祖父には旅の計画など話していなかった。けれどどこかで全てを、わたしのこともみんなの事も、分かっていたに違いない。
そんな経緯から、今回滞在させてもらった親友夫婦以外には、ニューヨークに行く事を伝えていなかった。
着いたら友人に連絡を取ってもいいし、あるいは誰にも会わずにひとりゆっくりと整理する時間にしてもいいし、と、見事なまでのノープランでただただ飛行機に乗った。
day 1:
サブウェイの中でばったりと。かつてダンスカンパニーで共に踊った友人。
ほとんどパニック状態の中、1駅分だけの近況報告会。
今この瞬間だけでない、共にした何十・何百時間の思いが一瞬にして蘇る。
day2:
なんとなーく立ち寄った。よく暇つぶしに立ち寄っていた懐かしい化粧品店。
後ろから肩を叩かれ振り返ると、目の前にはかつてのルームメイト。
渡米当初から苦楽を共にした戦友。久しぶりに、こんな偶然に出会ったはずなのに、懐かしいと同時に、昨日もこうして一緒にいたような、何とも不思議な感覚。
day3:
まるで映画のワンシーンのように。ストリートを歩いていると、真正面からぶつかるようにバッタリ。見逃しようがない。目と目がばっちり合って時が止まる。紛れもなくそこにいるのは渡米当初からの級友。
...その後も続いて嬉しい再会を果たしたり、やり遂げたかった事を達成したりと、上手く行き過ぎなことが続いた今回の旅。
なーんにも計画なんてしなくたって、完璧なまでのプランが用意されていた。
「おじいちゃんはここまで段取りしてくれちゃったのかな...」なんて思いながら。
理屈や、私の手の届くちっぽけな世界を超えた
何か大きな力、自然・宇宙の力をとても近くに感じずにはいられないニューヨークでの時間だった。
そして私の中で、時間と空間の関係性が覆された。ハートは時空を超える。超えられる。
過去ー現在ー未来 は一方向に矢印の向いた→直線ではないという事。
ひとつ違う通りを歩いていたら、予定通りもうひとつクラス受けていたら、一本前の電車に乗っていたらー
そう。会えなかったはず。出来なかったはず。
このニューヨークでの"特別”な偶然の連続が気づかせてくれた事は、実は毎日がその繰り返し。同じことが日々起きているということ。毎日がスペシャル。一瞬・一瞬が選択の連続で、偶然の上に成り立った今この瞬間がここにあるということ。
でもだからって「何が正しい選択なのか」「どの通りを歩いたら一番いいのか」なんて考え出したら、駅までの道も進めない。し、考えた所で分からない。
勝手に選んでいる=必然である ということ。
私に受け取る準備ができていれば、必要なものが舞い込んでくるということ。
自分が呼び寄せているということ。
それがエキサイティングなイベントであれ、例えちょっと応えるイベントであれ。
全ては必然。
友人らと語り合い過ごす時はまるで、この地で必死に奮闘していたあの頃の自分に励まされているようであった。
「やってきた事は、間違ってなかったでしょ。」って。
だって、懐かしい友人との幸せな今この瞬間は、10年前の、5年前の、1年前の、先月の、1週間前の自分が繋いでくれた結果だから。
自分が "無意識に" 選択してきた結果だから。
自分の小さな頭の世界で、マインドで考えすぎる時は、
ある種のおごりがあるのかもしれない。
自分がどうにかしなくては、とか
自分でどうにか出来るのだ、とでも言うように。
私は自然・宇宙の一部・一員であり、生きとし生けるものはみなひとつ。
人間・自分へのおごりを捨て、大前提を思い出す。
その大きな力は、一員であるわたしを見守り、わたしの「より良さ」のためにいつだって想像もつかないベストプランを用意している。
ちいさな自分の役割は、ハートのアンテナで、いつでも感じ取れるようにしておくこと。
勇気を持ってハートを開けば、答えは用意されているのだから。
7月。
帰国して以来久々にNYを訪ずれた。
もうひとつのホーム(故郷)。
旅の目的は、「立ち止まる」こと。
- “ Start by Stopping” (立ち止まるところから始めよう)
恩師・ Chrissy Carterがマットの上でよく口にした言葉。
その師を訪ね、再び彼女のもとで練習するために。Sadhana.
滞在中、受講した全てのクラスで 毎回 '出会う’ ポーズがあった。
「与えられている」
「処方されている」
「今の私に必要な何かを上が伝えようとしている」
そんな「今の自分のテーマポーズ」にきっと違いないポーズ。
【Parsvottanasana/パールシュヴォッターナーサナ】(体側を強く伸ばすポーズ):
見た目はシンプル。
でも ポーズに入れば、そのダイナミックな内側の‘引っ張り合い’—
「アクションvs.カウンターアクション」
「安定性vs. 拡がり」
「根付く(下向きの)力 vs. 進む(上向きの)力 」
「身体の前側(未来) vs. 後ろ側(過去)」
— を直ちに経験する。
ポーズの最大の目的は「背骨を伸ばし、拡げる」 こと。しかし同時に、それを妨げようとする必死の抵抗を「前脚のハムストリングス」「両体側」「コア」「肋骨」「上背部」「肩・首」に 経験する。
ポーズの中で体感するこれらの「制限」「不都合」「挑戦」が教えてくれるのは、より深いポーズの経験への鍵は、実は「リラックス」ということ。
なぜなら、必死になってもがけばもがく程、いま正に克服しようとしているはずの「抵抗」そのものをさらに増長させてしまうから。ポーズの中で、「手放す勇気」を問われていた。
「本当のところ、前に進むためにと自分が必死にしがみつこうとしているものこそが、自分を縛りゴールから遠ざけている原因なのかもしれないよ。」
十分伝わったよ...hahaha 苦笑しながら思わず空を仰ぐ。
より快適になろうとヨガスタジオに来たはずなのに。
私たちはマットの上でさえも、
「このポーズの間だけ、このクラスの時間だけ、乗り切りさえすれば、その先には開放感、達成感、何か良い事が待っているだろう」と我慢をする。
時に歯を食いしばり、ときに目を血走らせながら。
まだ見ぬ未来に期待を託し、こうしてまた今この瞬間を楽しむ事を忘れて...。
Sadhana ー
ちょうどそれは、自分で変えていけるもの (tapas) と、自分ではどうにもならないもの(isvarapranidhana) を見分け、バランスを探す旅でもある。
その為に必要とされる観察眼・洞察力を、クリシーは
- “Calm Alertness” (落ち着きの中にある注意深さ)
と表現していた。
ただの必死さ、とは違うそれ。
それが出来たなら、
ぐっと楽になる。明確になる。何より今を楽しめる。
そんな折、
ページをめくればまるで励ますように「忍耐力」を諭すマスター・賢人達の言葉が本の中から飛び込んでくる。
「忍耐力」ー
必死の我慢、とは違う。
事実から逃避し、現実を否定する姿勢なのか、受け入れ、認めている姿勢なのか。
抵抗するのか、信じて待っているのか。
大きな違いはそこに「自己信頼」があるということ。Faith.
するとそこから希望が生まれるから。Hope.
「季節は急げない。春がくれば、芝生が自然と伸びるように。焦る事は苦しみを生むだけ。」(‘Wherever you go there you are’- by Jon Kabat-Zinnより)
「切り傷、擦り傷を、そのうち治るからと放っておく様に。自然にゆだねるように自分自身にも信頼を見いだして。」(’Wisdom of the ages’- by Dr. Wayne W. Dyerより)
「偉業は時間を恐れない」 —孔子
恩師・賢人たちの言葉を自らの実践・経験に変えていけるまで、辛抱強く、そして
いつでも楽しみながら!進んでいきたい。
Yoga for Happiness! -立ち止まり、改めてそう実感した時間。
そして先日、場所は変わって日本。都内スタジオでの一幕。
「ねぇーだからロコちゃん、そんな時はもっとゆだねて!」
先輩ヨギーニからのドンピシャのひと言....。
「絶句(あぁ、やっぱり...)」
日々練習!
8月6日(火)朝、広島平和記念式典の中継がニュースで流れている。
スピーチを読み上げているのは小学6年生という男の子と女の子。
「平和とは、誰もがみな安全であるということ。」
「平和とは、誰もがみな幸せであるということ。」
「表現方法は異なってもいいのです。一人ひとりが自分の行動を考えることが大切。」
「幸せは自分自身が作り出していくものなのです。」
堂々と語る真っ直ぐな瞳に、釘付けになった。
端的に、力強く語られた言葉には、今の私たちに必要なエッセンスが凝縮されている。
Dr. Wayne W. Dyer は著書 "Wishes Fulfiled"(訳:島津公美)の中で、
幸せについてこんな風に語っている。
「幸せとは、欲しいものを手に入れたり、ため込んだり、使ったりする物質世界の事ではなく、内なる自分から生まれる姿勢や考え方なのです。」
「ー本当の幸せとは自分の中で作り上げるもの。」
「幸せになる道などなく、幸せは道そのものなのです。」
私たちは今日もまた、マットの上で不自然な格好(ポーズ)をしている。
息を止めて、ただ堪える拷問の時間にするのか、
呼吸を招き入れ、柔らかさを見つけ出すことに集中するのかは、
自分次第。
日常には、
腕で支えたり、逆さになったり、片脚で立ちながらもう一方の脚を肩に引っかける、
なんて事よりもっと不自然な、理不尽な、予想もしない要求をしいられる事で溢れている。
身体的な制限をわざわざ自分に掛けるのは、
筋肉・マインドに走る刺激の中で、必死に呼吸を探すのは、
マットの外でそんな「不自然な」出来事に遭遇しても、ちゃんと深呼吸できるようにするため、のはず。
でも本当に、
マットの上の経験を楽しめているのだろうか?
ひと呼吸、ひと呼吸。
同じ経験を、楽しいという現実にするのも、辛いという現実にするのも
自分の内側の力。
まずはマットの上で、自分自身を幸せにできるように。
大きな平和のために、まず自分が責任を持つ小さな平和。
私たちの中にある、「ふつう」というものさし。
「ふつうはOOでしょ。みんなそう。」
「ふつうこういう時はXXしないのに、なんで!?」
無意識に口にしている。
その「ふつう」はどこから来たのだろう?
国・文化、宗教、出身地、家族、世代、性別、習慣 etc.
その物差しを決める基準はそれぞれ。私たちはいくつもの物差しを持っている。
その物差しを他人と共有していると感じるとき、私たちは一種の帰属意識・仲間意識を感じる。安心感。
でもそれらに縛られ、そのグループに "fit" するためや、周りの期待する自分像に答えるために無理に幅を合わせるのは、違う。
自分と違う物差しを、たまたまひとつ持っているからといって、誰かを意見・批判するのも、違う。だって起源(ソース)は一緒なのだから。
ヒトの数程ある「ふつう」
自分の中に流れる”ダウンビート”
全身で、内側で、感じているはず。無視できないはず。
そのビートからずれたら、だってなんか気持ち悪いでしょ。
だからそれに従って行進すればいい。
それと同じように、
周りの人にはその人のダウンビートが流れている。
なんで?どうして?
説明を求めなくっていい。
違っていい。
そしてまた、過去の自分や’いつも’の自分の物差しで、今の自分を計るのも、
違う。
普遍・絶対的な基準=愛(やさしさ)さえ根底にあるのならば、
選択=表現方法は毎回違っていい。
自ずと’今の’正解が導き出せるはず。
いつもおんなじ選択をして、おんなじ事を、おんなじ順番で、おんなじ方法で
しなくたっていい。
そもそも勝手に自分が作り上げた ’マニュアル’ 通りでない事は、間違いとは違う。
「今日はこの辺でいいよ」
「今日の私も十分やってるよ」
「こんなペースでも何とかなるって」
「無理しないで」...他人には言えるのに、意外と自分には言えない。
意外と周りのみんなは何とも思っていないよ。
自分が一番自分を許せないんじゃない?
そうひと言、自分に言えたらどんなに楽になるか、ということたっくさんある。
自分の物差しの幅を、少し変えるだけで、解決することたっくさんある。
自分次第なのに。何にそんなにこだわっているのだろう、私?
自分で自分の首を絞めている。
もっと臨機応変に。
もっと”幅を利かせて”
これが難しいんだな...
「そこに愛はありますか?...だったらそれでいいじゃん!!」
世界中にファンを持つベストセラー作家、Dr. Wayne Dyer.
もちろん私もそのファンのひとり。
彼が話すこんなエピソードからー
Dr.W 「ここに一個のオレンジがあるね。これを絞ると何が出てくる?」
少年 「ジュース。」
W 「リンゴジュースは出てくるかな?」
少年 「出てこないよー。」
W 「じゃぁ、グレープフルーツジュースはどうかな?」
少年 「無理だよー。」
W 「じゃー何味のジュースが出てくるの?」
少年 「もちろん、オレンジに決まってるじゃん!」
W 「何で?オレンジを絞ると何でオレンジジュースが出てくるんだろう?」
少年 「(呆れた様子で)
オレンジなんだから、中身はオレンジの果汁に決まってるでしょ!」
W 「そう、その通り。それが中身だから。」
そしてDr.Wayne はこう続ける。
「ではこのオレンジがオレンジでなく貴方だとしよう。それを誰かが '絞る’ とする、プレッシャーをかける。例えば嫌なことを言ったり、と。すると貴方からは怒り、嫌悪、苦さ、恐れ、といったものが出てくる。なぜなら、先の通り!それらが貴方の中身だから。」
「誰が '絞った’ のかー 母、兄弟、子供、上司、政府なのかー は問題ではない。嫌なことを言われてその時出てきたものが、貴方の中身。そして中身を何にするか(何味のジュースにするか)もまた自分の選択。あなた次第。」
「誰かが貴方にプレッシャーをかけたとして(オレンジを絞ったとして)そこから他でもない '愛情’ しか出てこなかったとすれば、それは貴方が '愛' しか自分の中に入ることを許さなかったから。自らの意思・選択によってネガティブな感情を自分の中に住まわせず、それらを ’愛’と置き換えたから。」
この "Mind Power" と、積極的に自分の思考を選択し、コントローする大切さについて、彼は別の書でこんな風に表現している。
「貴方への忠誠心溢れるマインドの同意無くしては、誰も貴方を怒らせることは出来ない。」
「貴方の(マインドの)許可無くしては、誰も貴方を憂鬱にさせることは出来ない。」
「貴方(のマインド)からの最終命令無くしては誰も貴方を傷つけることは出来ない。」
外の環境が(独断で)私を不幸せにすることなんて出来ない。何にも。誰にも。
そこには必ずマインドの最終合意がある。
つまりは自らが不幸を選んで感じているということ。
厳しいようで、真実をついている。
そして私たちの大半は、言われなくてもその真実に気づいている。本当は。
前記事と重なるが、
「でもさ。そうは言っても。だってー」と第2章辺りをウロウロしているのだ。
へへ。
* * *
同じテーマに関して、Dr. Sara Gottfriedはこんな風に話している。
(Dr. Gottfried はホルモンバランスの観点から(特に)女性の心身のケアのために日々研究・治療を続けるドクター。彼女の有名な著書「The Hormone Cure」は、難解と思われる医学的知識を噛み砕き、膨大な情報を提供してくれるだけでなく、女性の本来持つパワーを思い出させ、女性であってよかった!と勇気づけてくれるような女性応援ブックです!)
日常の中で、イライラ、憤りを感じる時ー
「夫がもっとこうしてくれれば。」
「子供が全然分かってくれない。」
「それは自分自身に対するセルフケアが足りないサインだと思って。」
「しっかりお休みを取る。」
「食生活を少し改める。」
「好きなハーブティーを楽しむ。」
「長風呂にたっぷり浸かってみる。」
自分をもっといたわってあげると、十分に休息が取れると、
自然とその矛先は周りに(たいてい、被害者はすぐ近くの家族ですね...) 向かなくなりますよ、と。
「ご主人のこと、また大好き!って思えるはず。でもね、旦那さんが急にイケメンになる訳じゃないのよ。」ひひひ。
「子供のことまたかわいい!って心底思えるはず。でもね、急に泣かなくなる訳でも、食べこぼしが無くなる訳でもないのよ。」
つまりは、自分の '中身’ が変われば、同じものが異なって目に映る、感じられるということ。
* * *
私の好きな英単語に 'bliss' (至福)という言葉がある。
意味も、響きも好き。
無上の喜び、と辞書で表現されるけれど、
私に取っては飾り気のない、自分の中から自然と溢れ出る、にじみ出るような「素の喜び・素朴な幸せ」という感がある。
これを近くに感じられるから、もうかれこれ10年以上ヨガを続けているのだと思う。
私という存在も、全ての存在も、この 'bliss' 以外の何ものでもない、「喜び・愛」から出来ている存在だということ、
(エゴの思考や感情のレイヤーを取り払った時)
を思い出すために、思い出したくて、瞑想を続けているのだと思う。
(まだまだ、船こいじゃう日もあるけれどね!)
私にとっての欠かせないセルフケア。
そして、もうひとつ。わたしの元気・勇気の源。
ー クラスで生徒さんから 'bliss' を感じる瞬間。
全身を通して、アーサナ(ヨガポーズ)の体現を通してにじみ出る、
「微笑み」にも似たそのやわらかい輝きを目撃した時。
もちろん私に笑いかけているのとも違う、
「はい、チーズ!」の笑顔とも違う
「微笑み」がそこにある。
美しい、この一言に尽きる。
クラスの前後に掛けて下さるどんなに親切な労い、感謝の言葉よりも嬉しい瞬間。
その輝き・パワーを頂くからこそ、
「私でも続けていいのかな、もっと頑張りたいな。」と思えるのです。
第一章
道を歩く
歩道には深い落とし穴
落ちた
どうしたらいいのか...どうしようもない私
こうなったのは私のせいじゃない
一生ここから出られそうもない
第二章
同じ道を歩く
歩道には深い落とし穴
見て見ぬ振りをする
また、落ちた
また同じ場所に逆戻りなんて、信じられない
でも私のせいじゃない
抜け出すにはまだしばらく時間がかかりそう
第三章
同じ道を歩く
歩道には深い落とし穴
そこにあるのは知っている
でもやっぱり落ちる...これは私の癖
ちゃんと見てる
自分がどこにいるかも知っている
自分のせい
すぐにそこから出た
第四章
同じ道を歩く
歩道には深い落とし穴
よけて通った
第五章
私は別の道を歩く
~ポーシャ・ネルソン 「五章構成の自叙伝」より~
* * * * *
敬愛する恩師・クリシー(Chrissy Carter) の紹介で出会ったこの詩。
ライフ=ヨガの練習におけるひとりの葛藤・障害(klesha・クレシャ)プロセスが、なんともシンプルで明確に描写されていて。それは感銘を受けたのを今でも覚えている。
穴に落ちたのは、
「背中を押されたに違いない」と誰かのせいにして自分自身から目を逸らしてみたり、
「いつも私ばかり、何で私が」と悲劇のヒロインになりきって被害者意識に浸ってみたり。
その思考パターンこそが、落とし穴だとも気づかずに。私たちは繰り返す。
私たちの心の中にいつもある「いつかこんな風になれたら良いのに」「これが私の理想」という変化・変貌への願望。
でも実はそれと同じくらい、
「いつも通り・今まで通り」「お決まりのパターン」が大好きな私たち。
変化への抵抗。
ヒトはなかなか、変わらない。
今日の太陽礼拝(12のポーズを繋いだ一連の動き)、順番を変えてみる。
生徒さんの眉間のしわ、泳ぎだす目、食いしばる歯から伝わる“心地悪さ”
分かる、分かる。
自分がマットの上で練習すれば、同じようにその“心地悪さ”は身体の刺激を通してひしひしと伝わる。マッスルメモリーとはよく言ったもの。脳と筋肉の意思疎通が上手くいっていない感じ。互いに納得していない感じ。
私たちの“変化”に対する細胞レベルでの必死の抵抗を垣間見る瞬間。
落とし穴の中から光の射す方を眺めては、どう抜け出すかと作戦を練り躍起になる。
いつか“あそこ”に行きさえすれば、また“あそこ”に戻りさえすれば...と。
—どこに行っても、何を手にしても、私は私。
相変わらずの "私" という穴にまたハマるだけ。
実体のない ”あそこ” に光を求めるのではなく、自分がいる今この場所に光を当ててみよう。光を作り出せるは自分だけ。それも自分の選択。
もしかしたらこの穴こそが、今私の在るべき場所、来るべくして訪れた場所かもしれない!“今”に意味を見いだせるのもまた自分だけ。それも自分の選択。
ヨガが教えてくれる大切な姿勢(ポーズ)、それは聴くという姿勢。
会話をしていても真に聞き上手な人は、ひたすらじっくりと話し相手に注意を注ぐ。話を聞きながら自分が次何を言うかを考えたり、話半分に 相手が言わんとするであろうことを先回りして予測したり、無論、話を遮り話の方向を自分の思う方へと軌道修正したりはせずに。
聴くという姿勢はオープンであること。柔軟で、透明。“今”ここに在る、ということ。
アーサナでも、瞑想でも、それは同じこと。
そもそも、
何で私たちはヨガ(アーサナ/瞑想)をする=非日常的な動き/沈黙によってあえてわざわざ心身に刺激 ( =ストレス)を与える、のだろう?
なぜなら、
その刺激(=日常のストレスの疑似体験)を感じたときに違和感を伝えてくる細胞の "今" の声を聴く、感じる、訓練をするために。
「こう感じるべき、こうあるはず」「いつもこうだから」「まさかそんなはずはない」
の先入観なしに。
「どうせ」「だって」「でも」…と呪文のように吹き込もうとしてくる外野(多くの場合それは自分自身)の声を捉え、眺める。自分自身を穴に貶める思考パターンに気づけるようにー洞察力。それはヨガがくれる最大の贈り物。
そしてそこから先、常に選択権は自分の手の中にあるということも再度思い出そう。
自由であり、責任である。
そうは言っても、逃げたいときだってある。浸りたいときだってある。それで気が済むなら気の済むまでそうしたらいいんだ。それも選択。
でも、
そんなまでして守ってあげたい "かわいい" はずの自分の可能性を、自らが制限しているのだということを分かっているのなら。
そんなジレンマに… いつも効き目を発揮する薬がある!
— Samtosha(知足)
誰かが言っていた。どんな状況でも、誰しにも、必ず何かひとつは感謝できることを見つけられるはずだって。
自分の顔がついホロっとほころぶまでに、
「悪くないじゃん… 」ってつぶやくまでに そんなに時間はかからないはず。
その恵みに気づき、与えられた“今”を抱きしめたとき、大きな変化に繋がる小さな一歩を踏み出す勇気が持てるような気がする。
第一章から第五章までの長い長い道のり。ヨガの練習。
簡単でない。並大抵のことではない。
だからやっぱり、
「長い間、休みなく、大いなる真剣を持って」(ヨガスートラ第一章14項)
向き合っていくしかないんだな。
通いなれたスタジオへの道すがら。
ふと足が止まる。
満開の梅がきれい。
ほころぶ表情、ふわっとする心。
溶ける感覚。春の気配。
横を流れる小川には2匹のカモの姿。
夫婦かな?兄弟・姉妹かな?親子かな?
東京でも早々に出た桜の開花宣言。いよいよ春へ。
梅も、桜も、やわらかーく咲いている。
この長く寒い冬の間、根に栄養を溜め、樹皮を厚くして、つぼみを固くして、
じっと耐え、自らを守って、「このとき」を待っていた。
寒さの季節、試練の時期は内なる強さを培う絶好のチャンス。
全く地味だけれど、大切な充電・待機のとき。
でもいつしか、必死になって、頑なに踏ん張り続けたせいで、手段が目的そのものになってしまいそうになる。
もう肩に力を入れなくても、奥歯を噛み締めなくても、眉間にしわを寄せなくても良いのに、「そのとき」が来ても今度は力が抜けない。
鎧を脱ぐと何か弱くなるような気がしてしまうー恐れなのか。
頑丈な兜と引き換えに見失ってしまったのは自分を信じる勇気ー愛なのか。
これまで十分に内側に栄養を溜め込んできたのだから、練習・経験という後ろ盾があるのだから、あとはやわらかく咲くだけ。やわらかくっていい。
こうして梅も桜もほんのりと咲いている。
根っこ・芯は強く、咲くときはやわらかく。
トンネルを走る電車の窓に映る自分のしかめっ面にギョっとする..
無意識に力が入り自分で重くしている肩。
陽気もポカポカ、ジャケットは軽くなったはずなのに。
この春風吹き荒れる中を逆走しているような。
ハムスターがハムスターウィールを永遠に駆けているような。
穴の開いた風船を必死で膨らましているような。
ー自分からスースーとエネルギーが抜け出ていっている感覚。
「あーこのループからどうやって抜け出たら良いのだろう?」
そんなぼやきに
「抜け出ようとしなくていいんだよ。風は待っていたらやむよ。」の一言。
...そだね。
身体も心も、固く閉ざしていたものを手放す移行の時期。
いつでも移行・転換には時間はつきもの。待つこと、それもまた練習だね。
ありがとう。
そんな不安定な春先だからこそ、
ふわっと溶ける "やわらかい瞬間" を大切にしたい。感謝したい。
気づけば例のしかめっ面で帰宅しても...大切な人・仔の顔を見たとき。
おいしそうなケーキを目前にして無条件に笑みがこぼれるとき。
親友の手紙を読み返し、「うん、大丈夫」って思えたとき。
大好きな日常の風景ーお洗濯物が太陽の日を浴びて風に揺れているのを眺めるとき。
今日は小鳥の声も聞こえてきた! うん、春だなぁ。
探したら限りない。実はそこら中にこぼれているインスピレーション。
今はそのひとつひとつが余計に有り難く、胸に染みる。文字通り、溶かしてくれる。
メキシコ・カンクンに住む甥っこからの手紙。
送ってくれた荷物と一緒に、大きな海の向こうから届いたメッセージ。
文字を書き始めた頃だろうか?もう数年前。
以来ずーっと冷蔵庫に貼ってある。
人に必要な、最も大切な気持ちを思い出させてくれる。
自分にいうのも、他人(ひと)にいうもの、本当はこの2つだけでいい。
Thank you.
I love you.
" What judgement do I have of me that if I did not have it
I would allow myself to be totally free? "
- Dain Heer
" Spiritual growth involves giving up the stories of your past
so the Universe can write a new one."
" A shift in perception from Fear to Love is a miracle"
- Marianne Willamson
知らず知らずに自分に制限をかけている。
自分にかける何気ない心の声に、その制限は潜んでいる。
いつしか、でも着実にその声は呪文のように自分を洗脳していく。
始まりは、
誰かの何気ないひとことや、
過去の一回きりの出来事から投影されたイメージでしかなかったのに、
そうやって自分で真実に変えていってしまう。
自分自身で。
ー「そこにあるのは恐れなのか?愛なのか?」
私たちは自らが認識によって作り出したそれぞれの世界の中で生きている。
自分の認識ひとつでこの世は天国にも地獄にもなる。
恐れに端を発するその思考は愛とおんなじだけのものすごいパワーを持って’真実’を脅かしにかかる。
内に抱く思考を愛の方角に向かわせることは、自分の身を置くいわゆる現実にも愛を招き入れるということ。
エゴという恐れによって自分に制限をかけないで
勇気という愛を持って可能性にオープンであれば
世界/宇宙はいつだって全力で後押しして、味方しようとしてくれていることに気づく。
私たちが「奇跡的な出会い」「きっかけ」「試練」「経験」と呼ぶ「ご縁」を用意して。
来宮神社へ初詣。
樹齢2000年を誇る大楠は圧巻だった。
途方も無い程の時を超えて、人々の歴史・ドラマを見守ってきたのだろう。
この下にどれだけの根っこがあって、どこまで繋がっているのだろうと想像を膨らませながら、人間のちっぽけさを知る。(自分自身は言うまでもなく)
それは、謙虚であることを教えられているよう。
幸せでありますように ー
人類共通の願いを、私もまた大切な人たちと共に願った。
さぁ今年も、Yoga for Happiness!!
ありがとう。
全てのご縁にありがとう。
実際にお会いできた方に。
会えなくても、見えなくても、心繋がったあなたにも。
今年も皆さんのたくさんの優しさ・愛をありがとうございました。
- The era of the Head to the era of the Heart -
来年もまた一歩、近づきますように。
ひとがイルミネーションに惹かれるのは、
同じ輝きを、光を自分の内にも持っているから。
それを外に見て美しいと共鳴するのだろう。
Happy Merry Christmas to You!
素敵なクリスマスを。
"Imagination creates reality. ...I can create better if I could imagine better."
- Jon Rappoport
何度も読み返すほど大切な、もうぼろぼろになった小説。
ひとりの買い手の心を奪い、以来代々受け継がれる家宝になった絵画。
日常の手間をまたまた省いてくれる何とも便利な新商品。
頭痛と言えばこれ!と家族の信頼を買っている常備薬。
もう何十年も続いている国家の社会・医療制度。
今この世に存在するモノ・システム・思想、習慣のすべては、始めひとりのアーティストの、職人の、科学者の、医者の、政治家・官僚の、人間のアイデア=イマジネーションでしかなかった。誰にもまだ話していない、ひとりの人間の内なる「わくわく」でしかなかった。
今一度立ち止まり、
その恩恵に感謝する。
そして同時に、
’いつしか’当たり前と化したそれが本当に当たり前であって良いのか疑問視をする態度も併せ持つ。黙認するということは、NOと言わないということは、知らずに見過ごすということは、それを応援しているのと一緒だから。
人類皆の真の善・美のために想像しよう。
自分が創り手であればそれをかたち・行動にし、受け手であればそれを吟味しよう。
そうしてそのみんなにとっての『善・美』のためのものこそが当たり前として溢れ、感謝される世界を創ろう。
私たちの未来の創造は、私たちひとりひとりの想像力にかかっている。
他人(ひと)にはわざわざ言わないだけで...
ひとは皆それぞれ痛みを経験し、内に抱えたり、乗り越えたりしながら生きている。
悪気はなく誰かのそのキズに触れてしまうこと、また触れられてしまうこと、
もある。
その痛みは、本人にしか分からない。
分かり得ない。
ひとの経験にひとつとして全く同じ、など無く、似ている状況、体験でも
貴方のそれと私のそれは似て非なるもの。
どこまで自分に置き換えられるだろう?
ずーっと昔に見た、題名も忘れたその映画。
だけど主人公の言葉の掛け合い、このフレーズだけはなぜか鮮明に覚えている。
女性:"...Don't tell me how I am supposed to feel...You don't know how I feel."
男性:"You are right. I cannot feel you, but I can feel For you."
そう。‘おんなじ’ 気持ちに、なんて綺麗ごと無理かもしれない。
でも、その思いに寄り添うことだったら出来る。
幸か不幸か?自分には『壮絶な悲劇』の経験がないから、その痛みを分かってあげられないのではないか...自分には一体何が出来るのだろう?その無力さに落ち込んだ。
そんなとき、心の師と仰ぐあの人にやっぱりまた聞いてもらう。するとー
「必要なのは想像力だから。相手を思うその優しさも想像力から。」
「自分にも近い経験があれば、もちろんそのことが想像力を助けてくれるから、確かに相手の気持ちを想像しやすいかもしれない。経験は智慧を与えてくれる。でも時に経験は先入観や決めつけを生み、感じる能力を妨げることもある。」
「寄り添いたいとおもうその気持ちがあることが大切じゃないかな。」
必要なときはここにいるよ、と手を差し伸べ
相手が望むなら、とことん話に耳を傾けよう。
ただただ、隣りにじっと居るだけだっていい。
そう。寄り添う。
相手の気持ちに繊細でありたい。
その為には、自分の感じることに、自分の気持ちに繊細でなければ。
見て見ぬ振りをしてみたり、押し込めてみたりー逃避 ではなく。
映画の中のあの女性が言う通り! "Don't tell me how I am supposed to feel"
感じるままに、を大切に。
そして心に繊細でいられるように、まずはもっと単純な身体から繊細に感じられるよう、
始めよう。
だから今日もマットの上に立つ。
寄り添える人間になりたいから。
「シンプルはパワフル」ー
ヨガ講師・ジョーダン・ブルーム先生から学んだ、大きなレッスン。
先日、ジョーダンの「姿勢改善シリーズ〜肩こりの方へ〜」というワークショップを通訳させてもらった。
アーサナではなく敢えてシンプルな、「良い姿勢とは?」についてとことん考察するという充実の3時間だった。長年の豊富な経験を持つヨガ講師であるからこそ、一層説得力を持って基本に立ち返る重要性を説くことが出来るのだ。
彼は言う。
「大切なことはシンプルだ」と。
どんな複雑なヨガアーサナをマスターしても、現代人の私たちが日々その時間のほとんどを過ごす姿勢は、座る、寝る、立つ、といった基本の姿勢。
その’アーサナ’(姿勢)のマスター、意識の構築、無くしては、2足歩行の人間の宿命は避けられない。。。そして身体的な姿勢の改善は、腰痛・肩こりといったその’宿命’から我々を救うだけでなく、快適で安定した心の姿勢へと導いてくれるということ。
彼の指導する解剖学に基づいた、正しい立ち方、座り方、横たわり方のテクニックは正にシンプルで、誰もが ’今ここから’ 始められるところに意義がある。
でも特筆すべきは彼のクラス運び、伝え方にあった。
端くれながらも同じいちヨガ講師として、その手法に終止目を見張らずには入られなかった。
時に、いや多くの場合、大事なことと分かっていても、シンプルなことをただシンプルに伝えるのは難しい。
ヨガに関わらず指導に携わる人ならば、誰もが葛藤する所ではないだろうか...
'What you think they need vs. What you know they want/crave for."
シンプルであり続けることは何より勇気がいる。
信念・情熱という確固たる後ろ盾がないと。ジョーダンのように。
心が折れることだってある。
まるで言い訳でもするように、余計な修飾語や情報が増えていき、結局相手にポイントが伝わらない。
相手の欲求を満たしてあげることも、指導者として必要かもしれない。
でも、指導者だからこそ、本人では気づきづらい実はシンプルで一番大事なメッセージを言い’続けて’あげることができるのかもしれない。
1回言って伝わるなんて、そんなラッキーなことは思っちゃいけない。
だから、何回も、何回も。 - それが指導者の情熱・愛なのかもしれない。
でも飽きないように、面白く。 - それが指導者の腕なのかもしれない。
そんなジョーダンのWSを終えた帰り道、通訳の緊張から解放されると同時に全身に染み渡っていく’ジョーダンテクニック’を体感する。
電車を待つ列で、電車の中で立ちながら、夕飯の席で、’姿勢’を意識する。
そしてその晩、深夜の寝返り。彼のインストラクションを夢うつつにたどりながら、寝相を直している自分に気づく。
何とパワフルなメッセージだったのだろう。
伝える、とはこういうことなんだな。
シンプルであること。
それは美しい。
潔く、勇敢な美しさ。
明快。
だから伝わる。胸を打つ。
何より力強い。
自然のように。
大切なことをシンプルに。
そして繰り返し、繰り返し。
何度だって続けていく。
大好きな秋の空。
秋空はもくもく雲と一緒に、素敵な出会いを運んで来てくれる。
NYから来日中のヨガ講師・ジェニー。
私がNYでトレーニングを受けた恩師クリシーの親友でもある彼女と
初めて会ったのは去年、帰国後の日本でのこと。
今年もまたご縁あって彼女のトレーニングを通訳する機会に恵まれた。
日を改めてお茶をした。
1年振りの再会で話も尽きない。
でも、彼女の日本でのハードスケジュールを労うつもりで向かったのにな。
いつしか私が ’カウンセリング’ を受けているような始末...
NYから帰国して早くも1年半以上が過ぎる。
気づけば目の前のことにただ必死で今日まで来て、
大きな転換期を振り返ったり、ましてや気持ちの整理なんてしてこなかった。
し、何だかしたくもなかった。
ジェニーのいつもの鋭い洞察力と冷静さで次々と投げかけられる質問に、
うーん..と唸る自分。
「ヒロコ、この質問に私の為に答えなくてもいいけど、自分の為に答えられるようにしないといけないよ。」
言葉の投げ合いを続けること数時間ー
次の瞬間自分の口からポンッと答えが出た。
その瞬間を待っていたかのように、ジェニーは優しい笑顔でただ大きくうなずいた。
マットの上でも外でも魅せられる、ジェニーズマジック。
こちらもNYから来日のヨガ講師・ララ。
先日、彼女のキッズヨガトレーニングの通訳を担当させてもらった。
初日の朝。
初めましての挨拶を交わすや否や
「大丈夫、私もサポートするから。」
「私たち2人がひとつになってこのトレーニング達成するよ!」
...あ、大丈夫だ。っと思えていた。
まるで包まれているような大きな温かさだった。
”この先生のそばだったら安心”
理屈なしに、子供達はいつもそう思っているに違いない。
彼女もバックグラウンドは同じくNYダンサー。
私が最後に踊っていたダンスカンパニーのディレクター/振付家が、
ララの大学時代の教授、という共通点から昔話に花が咲いた。
またもやこうして与えられた振り返る時間。
そういう時期なのかもしれない。
お別れの日。
「ヒロコ、足し算だよ!引き算じゃないの。私たちが今までやってきたことに、積み重ねていってるの。全部が足されていってるんだよ。がんばろうね!」
「足し算」
そうだ...そうか!
ララはその繊細なまでの優しさで、最後のさいごまで励ましてくれた。
先日、菊池龍全さんのセミナー体験会に呼んで頂く機会が巡ってきた。
龍全さんは、認定NLPトレーナー・コーチであると同時に、高野山での厳しい修行を積まれた真言宗僧侶でもいらっしゃる。
「いのちを輝かす」をテーマに活動されている龍全さん。
この体験会では、”意識と無意識の調和” という正にヨガとの共通項から、
無意識の領域が持つ可能性とパワー、そしてその活かし方をご紹介下さった。
前記事 ’3つの植木鉢’ では脳科学の観点からDr. Joe Dispenza氏のお話をひとつご紹介したが、無意識の領域には以前からとても興味があった。龍全さんもまた独自の手法で無意識へのアプローチ法を研究されている。体験会では全てが興味津々で、終止胸のわくわくを抑えるのに必死だった。
ご紹介頂いたいくつかのエクササイズを体験する中で、とりわけ印象に残ったのは、圧倒法を用いた言葉によるエクササイズ体験。4人ひと組でチームを組み、被試験者に対し、残り3人の試験者が取り囲み、決められた(ポジティブな)言葉を浴びせていく。
改めて「言葉」が持つ威力を痛感する。
言葉が、例え一語一句文字通りの意味で意識下で理解されなくても、音としてのそれが持つエネルギー、それに乗った波動が、人の無意識に与える大いなる影響を再確認した。
そして特筆すべきは、エクササイズの効用は試験者であったときも、被試験者であった時も同様に感じられたということだ。つまりは、自ら発する言葉で、自らをも’洗脳’しているということ。
*
Sri Swami Satchidananda訳のヨガ・スートラ(哲学)の中で氏は
’言葉のTapas’(タパス・禁欲ー心身の浄化・変貌の為に必要な苦行を自ら進んで受け入れること)をこう説明している。
"Speech should bring tranquility and be truthful, pleasant and beneficial."
(ことばは平穏をもたらし、真実に満ち、快く、有益なものでなければならない)
そしてヴェーダ哲学のことわざ( -Satyam bruyat priyam bruyat )の紹介に続き、
" Speak what is true, speak what is pleasant"
(真実を語り、快きを語りなさい) としている。
*
直接的・間接的に、様々な分野の方のお話に触れる中で思うことは、
ヨガの賢者だけでなく、僧侶・心理学者・脳科学者・生物学者・物理学者・医者・言語学者・栄養士・経済アナリストから宇宙飛行士の方まで、それぞれ分野は違えど、その道を極められた方は共通の境地に辿り着いていらっしゃるということ。
龍全さんのお言葉をお借りするなら、『智慧と慈悲』である。
ヨガという手段を通して、ヨガの学びを通して、自分には一体どんな貢献が出来るのか?
改めて自問自答するきっかけを頂いた。
今日も広がる秋空がきれい。
ほんの3ヶ月前、人生初めてのヨガに加え、自分は一番年上だから、と恐縮そうな面持ちでいらしたその生徒さん。控えめながらも、いつもの定位置に早速購入されたという
マイ・ヨガマットを今日も敷き、休むことなく通われている。
話を聞けば、何年も続けている毎朝のウォーキングに食生活の管理と、徹底した自己健康管理振り。自分で育て作っているというカスピ海ヨーグルトのお話、そのヨーグルトに欠かさず入れるというきな粉のお話、お料理の調味料として欠かさず愛用されているというお酢のお話、ブルーベリーの効果。
毎回楽しみに聞かせて頂く。
外の既製品を受け付けない、お酒大好きのご主人の為に、結婚以来数十年間、毎晩作り続けているという手作りおつまみのお話。その献身ぶりに頭が下がる。( .....そして反省。)
趣味の陶芸は10年以上続け、数々の賞を受賞されたという。
この通り、長年の人生経験の中でご自身のディシプリン(自己訓練)を既に確立されているのだ。まさに先ほどのTapas(タパス)である。ヨガの説くヨガ的な智慧ある生き方は、何もヨガのアーサナ(マットの上のヨガ)をやる人だけが得られるものではない。
そして、意識下にたとえ躊躇い、恥じらいがあったにせよ、この方の無意識下に刷り込まれているこれまでの経験・達成からの勇気と自信が、こうしてまた新しいチャレンジへと突き動かしているに違いない。
今ではプライベートレッスンにも積極的に参加されるようになり、
今日もまた、私たちの持つ無限の可能性を目の前で教えて頂いた。
それを活かすも殺すも、自分自身の心持ちひとつ、ということを。
私もこうしていつまでも内側から若々しく、輝きを増すように歳を重ねていきたい。
そんな足利からの帰り道。
すがすがしい気持ちで窓の外をのぞいた。
"Can you give yourself permission not to compare with anybody?"
約束できますか?
「他の誰とも自分を比べなくていいんだよ」と。
「過去の自分とも、自分が勝手に作り出している未来の自分像とも、比べなくて良いんだよ」と。
自分に言ってあげられますか?
私たちは多かれ少なかれ、比べること、競争の中で育っている。
私たちに身近なスポーツも、競うことで結果を出して楽しむもの。
では比べることの意味って何だろう?
比較 -
比べることによってそこから何かを学べるのなら、自分の成長に変えていけるのなら、それでいい。
比べることによってその結果が ’自分’ を判断することや、下げること、傷つけることや、否定することがあってはいけない。
例えば今日のクラス、Supta Padangusthasanaで前回より膝がピンと伸びたとしても、その事実が前回より今の自分の方が ”良い人” ということを証明している訳ではない。
逆に言えば、前回Handstandできたのに、今日は逆転が出来ないからといって、
今の’自分’が間違っているとか、正しいとかを定義する訳ではない。
’ I am that I am'
私は私。私以上でも私以下でもない。
私にだけ分かる、私の内側にあるこの静かな空間。
誰にも邪魔できない、奪うことの出来ない、私だけの平和な空間。
周りで雨が降っても風が吹いても、嵐が来ても変わらず穏やかな空間。
人と比べるものではない。一人一人皆の内にある神聖な空間 - ’自分’
私たちは人間だから、煩悩がある限り、それこそサマーディにならない限りエゴがある。
だから人に褒められれば嬉しいし、承認されたい、賞賛されたい。
では世界中の人に褒め言葉を言われたら、本当にHappyになれるのだろうか?
私たちが本当は一番受け入れて欲しい相手は自分自身。
そして、自分だけでいい。ただひとり。
批判しない。否定しない。乗り越えて、乗り越えていく。
約束。
( Excerpt from the movie 'Shift' )
"... Let yourself be lived by it..rather than you take over. "
"...We all come from the Source. Everything you feel missing from your life that you wish to have is already connected to in spirit.
You just have to figure out how you align yourself with it and bring it on its way..."
"...How to be soft, how to be flexible, how to not be always in controlled,
but allowing this souce,
This source that is always flowing through each and every one of us to do, perform its magic, and its magic is always working for our best interest if we surrender to it, we stop making interference our life and let it be done...."
"...You do not breathe, you are breathed by it."
《 Memo 》
対極ー 他を知って自己を知る。差異にフォーカスして抵抗するのではなく、共通項を見つけ、調和へ。
Enjoy the dance of the two opposites and find a balance at heart center.
踊るように生きたい...
光を知る為には影も必要。光と影は背中合わせ。
でも、影を知っているから光の尊さが分かる。
環境、身体、感情 ー絶えず変化し続けるもの。
無理矢理にその動きを止めようとコントロールするのではなく、
その絶え間ない揺れ、シフト、ダンスに身を任せてみる。
続いていく変化があるからこそ、いつも変わらぬもの、内なる静けさ
に気づける。その尊さが分かる。
風を感じて空を飛ぶ鳥のように。
波に乗るサーファーのように。
彼らは、風を、波を、コントロールしようなんて思っていない。
きっと。
畏敬の念でゆだねている。ゆだねる上手な術を知っている。
きっと。
そうやって、自然の奏でるミュージックに身を任せ、踊るように生きていけたら...
大丈夫。
こうしてここまで
辿り着いたじゃないか。
「内なる観察者」に導かれ。
だから
ここからだって、きっと大丈夫。
先日、尊敬する大好きな方のWSを受けた。
母なる自然を思わせる、優しく包むような音たち。
時に激しく荒れ狂い、自然への畏敬の念を抱かせるような音たち。
ライブミュージックとのコラボレーション。
私たちの潜在意識に働きかける。語りかける。
それは、正に’祈り’にも似た
神聖な時間の中で降りてきた、贈られた言葉だった。
だいじょうぶ。
...なんと優しい響きだろう。
「私たちが恐れを抱くのは、愛を見失っているとき。」
「私たちの中に在るこの静寂に戻れば、そこにはいつも温かい愛が溢れているよ。」
あったかくて、あったかくて....
そんな時間が、空間が、「大丈夫だよ。」って背中を押してくれた。
2003年1月。
マンハッタン・ニューヨーク。
West 61st ストリート。
古びた校舎の2Fスタジオ。
忘れもしない。
ー人生最初のヨガクラス。
当時の印象をそのまま記憶通りに記すと... (ごめんなさい)
”なんだこの怪しい先生。何言ってるかよくわからない..”
”目を閉じて?想像する?これであってる?へー何か不思議..”
"何でダンサーになる為にこんなことするんだろう”
..... 。
名前なんて覚えていないその”怪しい”先生だけれど、
なぜだか今でもはっきりと覚えている1フレーズがある。
「...泣きわめく赤ちゃんも、鳴き止まない飼い犬も、それを否定して怒ったって、
やっぱり収まらない。まずは受け入れてあげること。愛を持って。そこから始まる。」
「自分にも愛を持って接しなさい。」
一瞬ハッとなった。何かが走った。
その名もなき先生によって
私に初めて蒔かれた、小さな、ちいさなヨガの種。
当時ダンスの先生で、そんなことを言ってくれる人はいなかった。
必要な言葉だった。
あったかかった。
全く本当に。
必要なときに、必要な言葉が、
周りにいる人の口を借りて、上から降りてくるのだろう。
そんな様々な人たちの愛の恩恵を受けながら、
内なる観察者と共に、
今日も進んでいこう。
きっと、大丈夫だから。
" ... You go within to seek what attracts you to Give...
A gift of giving out of your creativity is what grows you...
The more you say yes to giving what your creativity is, the more you are nurished by giving it. It is the way that the design is...."
- Barbara Mary Hubbard
ー与えること。
地球は、自然は、与える。与え続ける。
大地を、水を、火を、風を、光を。恵みを。
今この瞬間も、私に与えられている命。
恵みの息吹をひと呼吸、ひと呼吸、吸い入れる度に、
生かされている。
なのに欲しがってばかり。
不足ばかりが目につく。
それでもまだ足りないのか?
もっと与えることを。
「毎日練習しなさい。そして奉仕すること、心から奉仕したいと思うこと、
その思いこそが、すこしずつ貴方を先生として育てていくから」
ー忘れない恩師の言葉。
日々繰り返し言い聞かせる。物事の原点を思い出すために。
でも気づけばやっぱりもらってばかり...
与えなさい。与えなさい。
夏もいよいよ後半戦。
暦の上では立秋を迎えた。
世はお盆。毎年恒例の帰省ラッシュのニュースが流れている。
やっと取れたお休みに、混んでいると分かっていても...
新幹線立ちっぱなしでも!渋滞に巻き込まれても!!
それでも帰省する心理。
家族に会いたいから。故郷はほっとするから。
理屈じゃない。
帰るまで一苦労でも、その分チャージできる元気の方が大きいのだ。
2010年7月
それは突然だった。
92歳のお誕生日をそれは元気に迎えたばかりの祖母が他界した。
当時NYにいた私は、その訃報を電話で両親から知らされた。
会えない年月が続いていた。
あと半年で本帰国だから、そしたらゆっくり会えるかな。。漠然とそう信じていた。
実感もないまま飛行機のチケットを必死で探し、急遽一時帰国。
仕事もどうやってキャンセルしたのか、決断という決断をした記憶もなく、気づいたら 日本にいた、という程に自然と行動していたが、数日間という短い滞在でも、
それは私の人生において忘れられない時間となった。
ー納棺式。
ふすまを開けるとそこに祖母が眠っていた。
「あ、おばあちゃんはここにいない」
まず祖母の身体を目にしてそう思ったのをはっきりと覚えている。
「おばあちゃんに何か声をかけてあげなさい。」
家族に促されても、それ(身体)に向かって話す気にならない。
ーだってこの中にはもういないよ。
そう思った。
92年という今世での仕事を全うした誇らしげな鎧が、抜け殻が、
何とも穏やかな微笑みを浮かべてそこに置き去りにされている
..という感じに見えた。
私はいわゆる霊感とか、そういったものをもっていないから、
このときも何が見えた訳でもない。
それまでも、これまでも、全く。
でも、祖母の安らかな寝顔を覗き込む家族、親戚達を横目に、なぜか視線が上の方へ、
上の方へと泳いでしまう自分に気づいた。
ーもちろん、何も見えない。
身体は、身体でしかない。
身体は、私たち自身ではない。
マインドも私たち自身ではない。
決して変わらないもの、私たちの本質ー
それは意識・美・真実。それは魂。それはキラキラ。
それがあってこそ、本当に輝く。
それがあってこそ、私は私。
当時既にヨガをやってしばらく経っていたが、
頭で理解していた事が実感として繋がった瞬間だった。
”せっかく身体をまとって呼吸をしてこの世を生きていても、
その内側を震わせてなくっちゃ意味がない。”
そのキラキラは、この世を離れても唯一生き続けるものだけれど、
この世にいる間は、そのキラキラは身体を通して伝わってくる。
例えばそれは、
子供の輝く真っ直ぐな瞳から。
歌手の透き通るような歌声に乗って。
ここに存在している、意識を持っていると、力強く体現された
生徒さんのタダーサナ(山のポーズ)から。
クラス終わりのシャバーサナ(屍のポーズ)で横たわる生徒さん達を前に、
何度もこっそり涙した。
そこにあるのは明らかに身体だけではない、と。
瞬くようなオーラがいかにも放たれているかのようにまぶしく感じた。
生きている、って素晴らしい。
祖母の身体を綺麗に拭いた。
お化粧してあげた。口紅を塗って、ネイルも塗ってあげた。
長い間、お疲れ様。ありがとう。
そんな気持ちで。
実感が湧いてきた。
気持ちの整理が出来た。
その祖母の三回忌が先月行われた。
今回はかわいい甥っ子・姪っ子も連れてみんなでお墓参り。
その帰り道には母方の祖父母を訪ね、まさに
家族団らん。親戚が一同に介すと、
”あー間違いなく私のルーツはここだ..”と
クスッと笑えてくるほど似た者同士の集まり。そしていつしかおちびちゃん達も加わって、 大きな時の流れを実感する。
お盆
ーご先祖様が私たちを訪ねて戻ってくるとき
改めて、日本にまだまだ根強く残っている風習だなぁと感じる。
先祖を偲び、親戚・家族が懐かしい話に花を咲かせる。
私たちにとって一番身近な繋がりー家族。
’愛’を最初に教えてもらった場所。
近いからこそ忘れがちなその有り難みを確かめあう、
とてもいいきっかけかもしれない。
実家に帰ればお仏壇に手を合わせる。
お墓参りに行けば墓前で手を合わせる。
ーでもここにいる訳じゃない、
って思っている。
お盆だからきっと来ている。
ーでもいつもそばにいてくれてるよね、
って思っている。
私は、やっぱり残念ながら見えないし、聞こえないんだけれど、
なぜだか以来、いつも祖母がすぐ近くにいて見守ってくれていると思っている。
守られている、という気がしてならない。
思い込みかもしれないけれど、それで元気になれるから、いいんだ。
お互いの変化の時期に、10年近くずっと会えていなかった従兄弟たちと、
ひょんなきっかけで毎週会えることになった。
それも、亡きおじさんのお陰だと思っている。
親戚で集まると、本当にいつもいっぱい遊んでくれた。
また私たちを繋げてくれたんだ。そう思っている。
ふと亡き義祖父を思う事が多々ある。
一度も会った事はない。
間接的に、話を聞いた事があるだけなのに、
想うだけで深い愛を感じて、熱くなるものがある。
そういう人たちに、感謝して、心の中でいつも手を合わせる時間を大切にしたい。
雲ひとつない快晴の朝。
圧倒的な存在感と突き抜ける美しさを目前に、思わず手を合わせていた。
富士山。
日本の誇り。自然の恵み。地球の財産。
全てを分かっていて、受け止め、それでいて微笑んでいるような。
そんな大きさを感じた。
Tadasana (山のポーズ)
この堂々と広がる富士山の裾野のように
私も自分の足で立っていたい。
「地に足をつけたい... 」
9年間の海外生活のあと、そんな思いで帰国した。
思えばあの日々は、’自分’ を知るための試行錯誤だった。
あるときは、気の遠くなりそうな程高くにあって見えない頂上を
麓からただぼーっと見上げていたっけ。
そしてあるときは、ヘリコプターを使って上から見下ろしてみたりもした。
またあるときは、頂上にたどり着きさえすれば何か答えがあると思って、
必死に山を登った。
歩いて、駆けて、転んで、時に後ろを振り返って。
様々な人々との出会い、試練という名の経験に力を借りて、
ひたすら山を外から体験した日々。
今思えば、全てはただ、 山=自分自身 をもっと知るために。
弱い自分も、曲がった自分も、情けない自分もいっぱいいた。
自分を客観的に見ることは止めない。
でも
これからはもっと内側から自分を実感したい。
光を求め、浴びるのではなく、光になりたい。
富士山のように、
周りの葛藤も、自分の葛藤も全部を内に抱きしめて、
それでもドンっと自分の根っこを張っていたい。
根っこさえ安定していれば、
そこから何かがすっと伸びていくのを、
広がっていくのを、
あとは見守るだけだから。
行くべき所へ行くべきタイミングで辿り着くはず。
きっと ’ゴール’という概念もなくなるのかも。
今、この瞬間、今日も根っこを実感する事、
できること、それが幸せ。
河口湖・山中湖(山梨)を満喫したあと、
富士サファリパーク(静岡)へ向かう道中。
慣れない道案内にマップ片手にあたふたする私をよそに、
いつも変わらずそこにいる、富士山。
一定の距離を取って、でもちゃんと見ていてくれてる。
あれっ?見えなくなっちゃったよ?!!
あーそっか。 今度は後ろにいたんだ。
ホっ。
いつもそっと見守っていてくれる。
みんなのお母さんのような優しさ。大きさ。
安心感。
ありがとう。
Children,
They are here to remind us what is important,
to teach us how to speak truth,
and, to teach us how to truly love...
with their openess, deep caring, and total oneness.
こども。
”大切なものとは何か”
”真実を語るということ”
”本当に愛するということ” を 体当たりで教えてくれる。
偉大な先生。’今回’生まれてきた順番なんて関係ない。
純粋である事を馬鹿にする大人がよくいる。
“賢く”あることや、計算することが
さも立派な大人の証であるかのように。
純粋である事はやわで、うぶで、ナイーブだと。
考える事 > 感じること ...ほんと?
大人になっても透明で、真っ直ぐに輝いている人がいる。
その純粋さは、子供のそれとまた少し違くて、むしろさらにパワーアップ。
なぜなら、全てを分かり、受け入れ、赦した上で、そうある事を
”選んで”いるから。選び続けているから。
その深い優しさの裏には、とてつもない、強さがある。
それはとんでもなく勇気のいる事。
その真っ直ぐな、確固たる自分を引っさげた、勇敢なまなざしを前にしたとき、
人はまともに目を合わせる事が出来ないから、恥ずかしさすら感じるから、
卑屈になって馬鹿にするしか術がないのではないだろうか。
子供に恥ずかしくない大人でありたい。
NYからの贈り物。
親友Mから届いた手作りバースデーギフト。
箱を開けた瞬間に、どこからともなく
もう涙があふれていた。
伝わる、ってこういうこと。実感した。
彼女の温かいぬくもり、想い、
いつものあの笑顔が
そこに宿り、遠い海を越え、
私のハートに届いた。 響いた。
言葉は要らない。
それは時間も、スペースだって超える。
ありがとう。
昔も今も、
近くにいても離れていても、
あなたは私に優しさをくれる、
強さをくれる、自信をくれる。
変わらずに。
ありがとう。
私たちは皆ひとつ。
見えないもので繋がっている。
潔癖性の人には耐えられない事実かもしれないけれど、
私たちはこの瞬間も絶えず空気を、呼吸を、
隣りの人と、道に生えた木々と、草花と交換・共有しているのだから。
生きとし生けるもの、皆が呼吸で繋がっている。
そして呼吸に、表情に、言葉に、触れるものに、作り出すものに、
エネルギーを乗せ、飛ばしあって、
意識的に、無意識的に、影響しあっている。
エネルギーのこうかんこ。
波動はうつる。
笑顔は笑顔を呼ぶ。
肯定されて、受け入れられて、嫌な人はいない。
優しくされたら、返したくなる。
信じられたら、答えたくなる。
ただそれだけ。
自分が飛ばした波動は、必ず自分に返ってくる。
それはたった今ではなくても、必ず未来の自分が責任をとらなきゃいけない。
自分の取る行動、話す言葉、心に思う思考、描くイメージ全てにおいて、
優しい波動が生まれていくように。
そのために、さぁ今日も練習だ!-Sadhana.
3つの鉢に、
同じお花の種をひとつずつ蒔いた。
ひとつめの鉢には
愚痴、悪口を言ってきかせた。
ふたつめの鉢には
笑顔で毎日話しかけ、愛情たっぷり注いだ。
みっつめの鉢には
お水はあげた。けど、ほっておいた。
もう分かりますか?
植物・動物は人間よりも繊細で純粋なぶん、
反応が素直なんだろうな。
....でも人間だって、一緒だよね。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
このエピソードを紹介しているのは神経科学者/カイロプラクター/作家の
Dr. Joe Dispenza氏。同氏の娘さんの体験談だ。
同氏はインタビューの中で、
『私たちそれぞれが持つ、無意識に繰り返していると言われる人生の行動パターン
=心の癖を見直し、より良い健康と幸せをつかむ為に、どのように脳の神経回路を組み替えていくか。』という興味深いお話を、
量子物理学・脳科学・生物学・遺伝学の観点から語っている。
その素晴らしいお話の中からもう少し。
”私たちの先祖の時代、野生の中で生きていたときから我々が本能として持っている、いわゆる’戦うか逃げるかの反応’ (Fight or Flight response) =交感神経。
何か大きな獣が目の前に現れたときに、脳が緊急事態発生の危険信号を送り
運動機能が全開で働く。正に戦闘態勢。現代の私たちに取ってその対象はもちろんトラやライオンとの遭遇でなく、日々のストレス。
”問題なのは、あまりにストレスに溢れた状態が続く為に、緊急事態発生の信号が常にonになってしまっていること。私たちは一種の麻痺状態にある” という。
”本来なら、心ない上司の言葉、人の常識のない行動などといった何かしらのきっかけによってボタンが押され、苛立ち、怒り、悲しみといった感情が湧き起こるが、このきっかけのボタンが押されずとも、同じ状況を繰り返す(毎朝同じ電車に乗り、同じ会社に行き、同じ上司の顔を見て、同じ仕事をこなす)というパターン化された事実だけで、自動的にネガティブな感情に支配され続け、そしてそのことに自分で気づいていない、という事実。いわば脳にとってみれば24時間ライオンと同じ檻に入っているような状態だ。そんなストレス下で生まれる自らのネガティブな思考・発言により自分の脳を洗脳し、神経回路がシステム化され、無意識に同じパターンの選択を繰り返し人生をかたどっていく。同時にそれが身体をも蝕んでいく。”
ちなみにヨガではこれをサンスカーラ(samskara 行・ぎょう)という。
記憶・残存印象。
では、苛立ち、怒り、悲しみ、といったネガティブな感情そのものが悪くて、
持ってはいけないのか?そんなの無理だ。
ー違う。そうではない。と氏は答える。
”感情を持つことは生きることの大切な一部。感情を抱くことが悪いのではなく、無意識にそれに支配されることに問題がある” という。
”人がストレスを感じ、前述のように交感神経が働くと、アドレナリン、コーデゾールといったストレスホルモンが分泌される。しかしこれらの化学物質が実際に体内で反応するのはたったの2分。
喧嘩の途中で ”今怒ってるよね?分かる、わかる。でもさ、怒るのやめて?”
と言われたらどんな反応するだろうか?
たいていの人は、”いい加減にしてよ、私まだ怒っているんだから”と逆上するだろう。
でも氏は、”それは嘘だ” と笑う。
”そこで怒りの感情に歯止めをかけられなければ、それは正に先に言った交感神経・ストレス反応の麻痺状態にある証拠である” と。
ドキッ。
意識下、無意識下あるいは潜在意識下で引きずるその感情は...
「ねぇねぇ、なんでずっとそんなに機嫌悪いの?」
「実はさー、10日前にこんな事があって。。」
その人の気性、性格と呼ばれるようになっていく。
「だって、10年前に(から)こんな事があって。。」
その人の人格と呼ばれるようになっていく。
「だって、今までずーっとこんな事の連続なんだもん」
その人の人生そのものになっていく。
という。
うっ。。。
ネガティブな思考がストレスとなり、身体をも蝕むのなら、
その逆だって言えるのではないか。
ポジティブな思考が私たちを救う。変えていく。
生物学者のBruce H. Lipton氏も別のインタビューで同じ事を語っていた。
”正に私たちの前向きな思考、優しい感情が強い健康な細胞を育てる” と。
”DNAによってあらかじめ細胞の将来が決まっている訳ではなく、我々自らの思考こそが栄養となって、細胞の潜在能力を左右し、育てていくのだ” と。
*
科学者や生物学者、ドクターが、今やこうして科学的に証明するこの概念を、
何千年も前からヨガ哲学は説いている。
ヨガスートラ 第2章33項
"VITARKA BADHANE PRATIPAKSHA BHAVANAM"
「否定的想念によって攪乱されたときは、反対のもの【肯定的な想念】が念想されるべきである。」
"Replace negative thoughts to positive actions."
”日々に変化をもたらすこと。パターンを打ち破る為に、
新しい事に挑むことが大切” という。
常に挑戦することを忘れずに、新しい事を取り入れる。
ー響きは簡単なようでとても勇気のいることだ。
まして家族や仕事、といった私たちに一番影響を与える大きな環境は
簡単に変えられる/変えるべき/変えるもの、ではないし。
’新しい事’というのは何もそんな大それた”改革”でなくてもいいのだと思う。
いつも決まって乗る電車の定位置をずらしてみる。
....でも乗り換えに便利だし。ー私今日そんなに急いでたっけ?
いつもバスで行く場所に自転車で行ってみる。
ーだって今日はお日様が気持ちいいしね。
私朝苦手だからな。
ー夜更かしして終わらせるかわりに、1時間でいいから早起きしてみる。
昔そうだったから、前回こうだったから、今日もきっと、明日もどうせ..
麻痺した神経回路が作り出す、もう勝手に予期されている、
架空の未来。私の虚像。
ちいさな変化や挑戦でも、
’今’のこの経験は、’今’の自分だけのもの、
という事を教えてくれるはず。
可能性にオープンでいれば。
オープンでいる、と言えば、
ちょうど前記事のヨギー・Aadil Palkhivala氏の言葉と重なるなぁ。
正にそれがヨガの姿勢。
あるいはそれは、
日々同じ事を行う中にも、
自らが’選択して’これを行っているんだという意識を自覚すること。
その先にある、目的、意図を今日もまた自問すること。
そういうことかもしれない。
決まりきったことだから、いつもそうしてるから、みんなもそうだから、
とただ ’なぞる’ のではなく。
過去に生きるのではなく、’今’の私と’今’を生きている、という実感。
ヨガで良くいう”今この瞬間と繋がる”ということ。
そしてそうする事が、自分の選択ー
人生に’責任’を持つ、
ということにも繋がるのだろう。
そうやって自覚を持って積み重ねていった選択なら、きっといつだって堂々と胸を張っていられるはず。他人のせいにしないし、
他人が何と言おうと気にならない。
今の自分が過去の自分を責める事はないし、
未来の自分に恥じる事もない。
インタビューを見ながら、そんな事を考えていた。
Dr. Joe Dispenza氏
〈新作著書・紹介〉
Breaking the Habit of Being Yourself
~How to Lose Your Mind and Create a New One~
"The fact that makes Yoga unique is that it is not information."
"There is so much information about yoga on the internet that you can learn from. Yoga teachers would be so obsolete if the information was Yoga..."
"It is about transmission, it is about energy. The energy of yoga is not stored in the words and facts. it is space. it sits in its own plane, the yogic plane, like a physical, mental, and emotional plane, there is a yogic plane."
"In order to access to it, you need to tune in, like radio. We have to go through every channel, keep changing and changing."
"In order to receive information, you need open mind"
"In order to receive transmission, you need open heart"
*(open=empty=no resistance)
"This is the magic of yoga.
It is far vast than words, demonstrations, and touch.
That cannot be codified or weighed.
That cannot be described in words or explained.
There is no box to fit it in, or room to give an illusion of meaning.
That is the transmission of yogic force."
To gain the openess, he encourages us by quoting from Charles Deveaux,
'The important thing is to behave, at any moment, to sacrifice what we are for what we could become'
"Be open and ready for change.." he continues.
" One requirement for yoga:
Willingness to change and grow, and the openess to receive,
....then magic will happen."
I say Namaste to great master..
You may wonder why these photos?
.....Well, this too! is great magic, to me :))
母の誕生日
姉の誕生日
父の日
そして...
My Birthday!
昔から6月は家族のお祝い事が重なって賑やかだった。
みんなおめでとう!
いつもありがとう!!
一丁前に(?)お誕生日が来るのが嫌だなぁ。。
なんて思った時期もあったけれど、
今は待ち遠しい。強がりじゃないぞ。なぜなら!
特にここ数年、本当に輝いている
素敵な先輩女性にたくさんお会いしているから。
たくさんのインスピレーションを頂ける環境に感謝して。。
私も一年一年、深く刻んでいきたい。
毎年笑顔でこの6月をお祝いできますように。
「日本科学未来館」
企画展・世界の終わりのものがたり〜もはや逃れられない73の問い〜
一見するとタイトルはネガティブなようだけれど、
とってもポジティブで、先に希望を見いだそうとする素敵なイベントだった。
まるでヨガマットの上でアーサナをしてるときと同じ。
まるでインド・リシュケシュでスワミジーのお話を聞いてるときと同じ。
73の様々な方角から投げかけられる問いかけのようで、
訴えかけているのはひとつ。私たちひとりひとり、
それぞれの真実。本質。
「何を大切に生きていきたいのか?」
「自分とは何なのか?」
ーシンプルに答えられる自分でありたい。
そしてその大切にしたい事を大切な人と共有できる事ほど
嬉しい事はないだろう。
初・巣鴨。
もちろん!とげぬき地蔵へ。
元気になりたい部位に水をかけ、タオルで優しく撫でてあげると
お地蔵様が ’とげ’ を抜き良くしてくれるそう。
毎日・毎日こんなにたくさんの人たちに大事にされ、
何ともきれいな微笑みを浮かべているお地蔵様。
嬉しそう。
お地蔵様をきれいにしたあと、手を合わせ 静かに、一心に
'想っている'
人々の姿はもっと優しく、美しかった。
みんな誰かのより良き幸せを願っている。
どこかで想い、想われている。
優しさって、あったかいな。
安心するな。
*
その優しさの種は、私たち皆が
平等に持って生まれたもの。
私たちの構成要素。
成長期・活動期・休眠状態・昏睡状態
種の状態は様々だけれど。
自分でそれに気づいていれば大丈夫。
種を持っている事すら忘れたり、
持っている事を疑ったりしなければ。
お互いの優しさを栄養にして、
みんなの花で溢れる世界になりますように。
今日もまたひとつ、近づきますように。
10年以上ぶりに足利を訪ねた。
ご縁あって7月から毎週足利に通う事に♪
大好きな山と川のある風景。
こんな優しい自然に囲まれたら、シンプルに答えが降ってきた。
背中を押してくれた。
これからよろしくね、
足利さん!
大きなツキがたまにやってきてぎゃ〜!!と興奮させてくれるより、
くすっと思わず笑顔になるような、ちいさな幸せ、ありがとうを
たくさん感じられる毎日であったら良いな。
自分らしく、マイペースに。でも一生懸命。
自分がそうやって楽しんでいれば、きっと、どこかで微笑んでくれる人も
いるのかもしれない。大きな事をしようとしなくても。