第一章
道を歩く
歩道には深い落とし穴
落ちた
どうしたらいいのか...どうしようもない私
こうなったのは私のせいじゃない
一生ここから出られそうもない
第二章
同じ道を歩く
歩道には深い落とし穴
見て見ぬ振りをする
また、落ちた
また同じ場所に逆戻りなんて、信じられない
でも私のせいじゃない
抜け出すにはまだしばらく時間がかかりそう
第三章
同じ道を歩く
歩道には深い落とし穴
そこにあるのは知っている
でもやっぱり落ちる...これは私の癖
ちゃんと見てる
自分がどこにいるかも知っている
自分のせい
すぐにそこから出た
第四章
同じ道を歩く
歩道には深い落とし穴
よけて通った
第五章
私は別の道を歩く
~ポーシャ・ネルソン 「五章構成の自叙伝」より~
* * * * *
敬愛する恩師・クリシー(Chrissy Carter) の紹介で出会ったこの詩。
ライフ=ヨガの練習におけるひとりの葛藤・障害(klesha・クレシャ)プロセスが、なんともシンプルで明確に描写されていて。それは感銘を受けたのを今でも覚えている。
穴に落ちたのは、
「背中を押されたに違いない」と誰かのせいにして自分自身から目を逸らしてみたり、
「いつも私ばかり、何で私が」と悲劇のヒロインになりきって被害者意識に浸ってみたり。
その思考パターンこそが、落とし穴だとも気づかずに。私たちは繰り返す。
私たちの心の中にいつもある「いつかこんな風になれたら良いのに」「これが私の理想」という変化・変貌への願望。
でも実はそれと同じくらい、
「いつも通り・今まで通り」「お決まりのパターン」が大好きな私たち。
変化への抵抗。
ヒトはなかなか、変わらない。
今日の太陽礼拝(12のポーズを繋いだ一連の動き)、順番を変えてみる。
生徒さんの眉間のしわ、泳ぎだす目、食いしばる歯から伝わる“心地悪さ”
分かる、分かる。
自分がマットの上で練習すれば、同じようにその“心地悪さ”は身体の刺激を通してひしひしと伝わる。マッスルメモリーとはよく言ったもの。脳と筋肉の意思疎通が上手くいっていない感じ。互いに納得していない感じ。
私たちの“変化”に対する細胞レベルでの必死の抵抗を垣間見る瞬間。
落とし穴の中から光の射す方を眺めては、どう抜け出すかと作戦を練り躍起になる。
いつか“あそこ”に行きさえすれば、また“あそこ”に戻りさえすれば...と。
—どこに行っても、何を手にしても、私は私。
相変わらずの "私" という穴にまたハマるだけ。
実体のない ”あそこ” に光を求めるのではなく、自分がいる今この場所に光を当ててみよう。光を作り出せるは自分だけ。それも自分の選択。
もしかしたらこの穴こそが、今私の在るべき場所、来るべくして訪れた場所かもしれない!“今”に意味を見いだせるのもまた自分だけ。それも自分の選択。
ヨガが教えてくれる大切な姿勢(ポーズ)、それは聴くという姿勢。
会話をしていても真に聞き上手な人は、ひたすらじっくりと話し相手に注意を注ぐ。話を聞きながら自分が次何を言うかを考えたり、話半分に 相手が言わんとするであろうことを先回りして予測したり、無論、話を遮り話の方向を自分の思う方へと軌道修正したりはせずに。
聴くという姿勢はオープンであること。柔軟で、透明。“今”ここに在る、ということ。
アーサナでも、瞑想でも、それは同じこと。
そもそも、
何で私たちはヨガ(アーサナ/瞑想)をする=非日常的な動き/沈黙によってあえてわざわざ心身に刺激 ( =ストレス)を与える、のだろう?
なぜなら、
その刺激(=日常のストレスの疑似体験)を感じたときに違和感を伝えてくる細胞の "今" の声を聴く、感じる、訓練をするために。
「こう感じるべき、こうあるはず」「いつもこうだから」「まさかそんなはずはない」
の先入観なしに。
「どうせ」「だって」「でも」…と呪文のように吹き込もうとしてくる外野(多くの場合それは自分自身)の声を捉え、眺める。自分自身を穴に貶める思考パターンに気づけるようにー洞察力。それはヨガがくれる最大の贈り物。
そしてそこから先、常に選択権は自分の手の中にあるということも再度思い出そう。
自由であり、責任である。
そうは言っても、逃げたいときだってある。浸りたいときだってある。それで気が済むなら気の済むまでそうしたらいいんだ。それも選択。
でも、
そんなまでして守ってあげたい "かわいい" はずの自分の可能性を、自らが制限しているのだということを分かっているのなら。
そんなジレンマに… いつも効き目を発揮する薬がある!
— Samtosha(知足)
誰かが言っていた。どんな状況でも、誰しにも、必ず何かひとつは感謝できることを見つけられるはずだって。
自分の顔がついホロっとほころぶまでに、
「悪くないじゃん… 」ってつぶやくまでに そんなに時間はかからないはず。
その恵みに気づき、与えられた“今”を抱きしめたとき、大きな変化に繋がる小さな一歩を踏み出す勇気が持てるような気がする。
第一章から第五章までの長い長い道のり。ヨガの練習。
簡単でない。並大抵のことではない。
だからやっぱり、
「長い間、休みなく、大いなる真剣を持って」(ヨガスートラ第一章14項)
向き合っていくしかないんだな。