”なんであの時あんなこと言ってしまったんだろう...。”
”なんであの時OOしなかっのだろう...。”
ひとには誰でもそんな後悔が、大なり小なりひとつはあるだろう。
思考ー
それは私たち人間を人間として機能させる大切な働き。
寝ている時以外休みなし、ひっきりなしに私たちを刺激し続けるもの。
悪者ではない。扱いがちょっと厄介なだけ。
そしてその刺激に対して私たちそれぞれが持つ反射的、衝動的、感情的、習慣的反応。
ココロ癖、言動・行動癖、とも言えるだろうか。それには、生きる上で身につけてきたある種の防衛本能も含まれる。
この刺激と反応のあいだに一瞬の間(ま)、Gap(溝)を作れたなら。
その先に広がるのは全く別の道。
その「間」にこそ、平穏へのカギがありそうだ。
反射的、衝動的、感情的、習慣的反応は、意識的な選択へと変わる。
あるいは、全く反応しないという選択にも。
瞑想のとき。
止まることなくちょっかいを出してくる思考の連続。
思考を完全に止めることなんて出来やしない。
まして、
前向きな、暖かい、思いやりに溢れた、、
そんな思考だけならまだしも。
私たちは人間だからそうもいかない。
後ろ向きで、否定的で、いじわるな思考だって顔を出す。
「そんなことを思う自分なんて、、」と否定するのも違う。
なかったことにしてフタをするのも、端に追いやるのも違う。
きっと持ってはいけない思考・感情なんてなくって。
否定する必要はない。
気づくということに意味があるはず。
気づけて初めて手放すこともできるのだから、喜ばなくっちゃ。
あらゆる思考を見守る優しさ、手放す勇気、
そんな「強さ」を瞑想を通じて養っている気がする。
ひたすらに、ひたむきに、意識を呼吸へ、呼吸へー
「今」この瞬間へと戻すプラクティス。
思考が連れて行こうとする過去にも未来にも振り回されず、
「今」に100%在ることを選択し続ける練習。
すると少しずつ、刺激と反応の間に存在する、し得る、一瞬の「間」が見えてくる。
「あー足がしびれたもう無理!」とため息をついて足を崩し、オーディオガイドに駄目出しをする... 自分のいつもの姿が見えて、にやっとできる一瞬の「間」。
「さぁどうする?いつものパターン行く?」
「いや、今日はもう少しこのしびれの様子を見守ってみよう。」と深呼吸することを選択。
このダイアログが交わされるのはほんの一瞬だけれど、
これがマットの外のシーンなら、その一瞬の「間」が、人生をも左右することもあるだろう。
だって人生は、小さな選択の繰り返し、積み重ね。
そこに選択肢があるかどうかも分からないままでも、勝手に進んでいってしまう。
だから、過去のパターンに引っ張られるんじゃなく、未来の不安で先回りするんじゃなく、「選択した」という意識をもって常に「今」を選び続けたい。
何を選択したのかよりも、「自分で選んだ」という事実そのものの方が、のちのち自分を支えてくれると思うから。だから選択肢に正解もない。
フィジカルボディーは筋トレをして健やかさを保つように、
マインドもトレーニングして飼い慣らす必要がある。ー瞑想。
ココロも強くしなやかに。
その強さで、その間、そのひと呼吸を生み出せるように。
マインドは、私たちが”世界”を見るためのレンズなのだから。
そのひと呼吸で、私の世界が変わる。人生が変わる。
さぁ、こんなときこそ、深呼吸。